【2009年8月4日】
小早川秀秋、東軍に寝返り。
これを決断させたのがいえやっサンからの威嚇射撃と家老・稲葉正成の説得だった。
秀秋は徳川・石田どちらにつくかギリギリまで迷い、関ヶ原に参戦した。
と、上記のように言われていることが一般的に広がっているが、実際は違う。
「誰があんな人間に味方するものか」
という気持ちでいっぱいだった。
秀秋は関ヶ原の少し前、筑前名島30万石を没収される処分を受けている。処分そのものは秀吉の薨去で沙汰止みになったが、この処分を受けたときに相談に乗ったのがいえやっサンだった。
いえやっサンは
「金吾様はゆるゆると筑前を引き払いなさいませ。太閤殿下へは私から処分の取り消しをお願いしてみます。ゆるゆると引き払って、時間稼ぎをして下さい」
と言った。
処分の内容は筑前から越前への国替えだったが、秀秋はゆっくりゆっくり、家臣たちを少しずつ越前へと向かわせた。
そうしているうちに秀吉が死んだので、処分そのものが沙汰止みになった。
秀秋はいえやっサンに感謝した。と、同時にこの処分の裏に石田三成がいることを知る。
処分の理由の一つに朝鮮での秀秋の戦いぶりがあった。
「死ね死ね!」
秀秋は総大将であるにも関わらず、自ら先頭に立って槍を振るって敵陣に突入した。
これが秀吉の耳に入り不興を買った。耳に入れたのは三成だった。
三成は秀秋の他にも加藤清正についても秀吉に告げ口をし、清正を謹慎処分にしたことがある。
こういったことから三成は朝鮮出兵で渡韓した連中からひどく憎まれた。
「治部少輔め」
秀秋は怒った。
関ヶ原でももちろん最初から東軍に付くつもりだった。
が、いえやっサンは稲葉正成を通して
「ギリギリのところで寝返るように」
と言って来た。
秀秋はいえやっサンの指示通りにした。
ほぼ互角の戦況で、突如小早川軍は東軍に寝返った。効き目は大きかった。
関ヶ原の戦いは即日決着がつき、石田三成は後日捕らえられて首を打たれた。
計画通りの寝返り。
そして三成の斬首。
寝返りの見返りは備前岡山52万石。
秀秋にとっては満足な結果だったが、自分自身がこのあとすぐ死んでしまうとは想像していなかっただろう。