【2009年2月5日】
「血糊の色が薄うござる」
大坂冬の陣の講和の席上、大御所家康に喰ってかかった23歳の若武者がいた。
その若武者、名をば木村重成という。
講和の正使たる彼は、講和の文書に捺す血判の血糊が薄いと大御所家康に向かって言ったのだ。
こういうとき、大御所家康は「この若造め」とは思わない。
だからこそ直江兼続の『直江状』も許したし、立花宗茂の真っ直ぐさも認めて大名に復活させた。
大御所家康自身は決してズルいタヌキでは無いのだが、この講和のときに使ったトリックが後世、「タヌキオヤジ」の悪名を決定付けた。
講和の条件の中に
大坂城の総濠を埋めること
という一文があった。
豊臣家はこれを「惣濠」と解釈した。
徳川家が「惣」と「総」を書き間違えたのだろう、と。
「惣濠」と言った場合、それは城の外濠を指す。それが当時の常識だった。
ところが大御所家康は大量の土工を雇い、城の外濠も内濠も全て埋めてしまった。
豊臣家が苦情を言い立てると、この「書き間違い」を思いついた本多正信が
「講和の文書には、ちゃんと『総濠』と書かれておったであろう」
と、半ば相手を馬鹿にするような口調で言い放った。
「総ての濠で『総濠』」
正信はこう言って苦情を打ち切らせた。
この埋め立て作業から4ヶ月後、大坂夏の陣が起こる。
木村重成は
「濠を全て埋められた以上、籠城もならず。あとは華々しく討ち死にするだけ」
と死を覚悟して出陣した。
重成は出陣前、髪に香を焚き込めた
源平の頃の美意識を、重成は持っていたのだ。
香を焚き込める作業をしたのが、夏の陣のほぼ半年前に重成と結婚した妻・青柳だった。青柳、このとき19歳。
重成は徳川軍と最後まで勇敢に戦い、討ち死にした。
戦後、首実検が行われ、重成の首を実検した大御所家康は「先日の講和の折りの、あの若者ではないか」と重成の首に近づくと、香の匂いがした。
「大坂方にも、天晴れな武将がおったわ」
大御所家康は同じいのちのやりとりをする武士として、爽やかな感動を覚えた。
大坂城落城後、豊臣家の残党狩りは熾烈を極めた。
が、重成の妻・青柳は残党狩りの網の目から逃れている。
もちろんこれは大御所家康の「匙加減」だ。
青柳は重成の子を身ごもっていた。
青柳は男の子を出産した。
そしてその子を馬淵という人の養子にすると、青柳は20歳で自害した。