【2011年1月5日】
慶長19年。
例のあの「方広寺鐘銘事件」で徳川家は豊臣家に対して圧力を強めた。
方広寺鐘銘事件とは、何のことは無い鐘の銘にいえやっサンがいちゃもん付けた一件で、無理やり「事件」に仕立て上げたものだ。
方広寺の鐘の銘には
国家安康、君臣豊楽
と銘が刻まれていた。
続いて、
子孫殷昌
と刻まれていた。
さらに、
東迎素月、西送射陽
と続いた。
この5箇所に、いえやっサンは噛みついた。
いえやっサンはこれを口実に大坂攻めを実行に移したかったのだ。
「事件」に仕立て上げるためにいえやっサンは大量の高僧を投入し、この5箇所が「徳川家を呪うもの」という「裏付け」を捏造した。そして、「質問状」を大坂城の秀頼母子に叩きつけた。
大坂城は大騒ぎとなった。
正純は
「『国家安康』は大御所様の御名・家康を二つに分断した不吉極まりない文言。さらに後に続く『君臣豊楽』と『子孫殷昌』は大御所様の御不幸のあと豊臣家と秀頼どのの子孫の繁栄を願ったもの。そして『東迎素月』『西送射陽』は関東には粗末な月夜しか訪れず、大坂には明るい陽の光が降り注ぐという意味であろう」
と且元を詰問した。
且元は
「方広寺の鐘銘にはそのような意味はござらん。大御所にそのようにお伝え願いたい」
と反論した。
しかし正純は
「大御所様のお怒り尋常ならず。大坂を召し上げて安房・上総・下総の三国に国替えせよとの仰せじゃ」
と言い返した。
且元の報告を聴いた淀殿は、次に側近である大蔵卿局という女性を駿府城に差し向けた。
すると今度はいえやっサンが直々に応対し、
「あんな鐘の銘くらいで怒るわけ無かろう。せっかく駿府にいらしたのだ、魚でも食べてゆるりとなさるがよい」
とニコニコ顔で言い、すぐに魚料理の支度を命じてもてなした。
これこそ、いえやっサンの狙いだった。律儀者の且元が大坂城にいては大坂攻めを実行に移せないのだ。
「女子と小人は養い難し。太閤殿下、申し訳ございませぬ」
且元は涙ながらに大坂城に向かって一礼した。
それからわずかの時を経て、大坂城も秀頼母子もこの世から消えた。