【2009年1月15日】
ここに、真田昌幸・幸村(信繁)親子が配流され、和歌山藩主・浅野幸長(幸長の死後は長晟)の監視のもと軟禁生活を送った。
軟禁された理由は、関ヶ原の戦いで石田方に付いたためだ。
「表裏比興の者」
「幸村の親父は、煮ても焼いても喰えぬ奴」
いえやっサンをはじめ、昌幸と同じ時代を生きた人たちは昌幸をこう評した。
「表裏比興の者」
その時々の都合で武田に付いたり北条に付いたり上杉に付いたりと、器用に生き残った昌幸はこう呼ばれた。
「比興」は今日「卑怯」と当て字されるが、この時代の「比興」の意味は今のように「汚い」だとか「悪質」だとかいう意味では無くて、「強か」という意味だった。
その「表裏比興の者」の真骨頂を見せたのが関ヶ原の戦いでの対応だった。
昌幸は長男・信幸(のちの信之)と次男・信繁(幸村)を呼び、
「信幸は徳川秀忠軍に付け。信繁はワシとともに石田方として戦う」
と言った。
どちらが勝っても真田家の自家保存は出来る。
こうして真田家は二つに分かれた。
秀忠軍は38,000の大軍。これに対し昌幸軍は僅か2,000。
19倍の兵力があれば城一つ踏み潰すのは簡単なのだが、秀忠軍はこの城を落とすことが出来ず足止めされたために関ヶ原の本戦に間に合わなかった。
このため、秀忠将軍はのちに「泥塑人」(泥人形)という不名誉なあだ名を付けられた。
実は徳川軍は豊臣秀吉が天下を統一する前、やはり同じく上田城で昌幸と戦っている。
そこでいえやっサンは昌幸に散々叩かれた。
徳川軍は親子二代立て続けに昌幸に敗れたのだ。
関ヶ原の戦いのあと、お取り潰しとなった昌幸父子は紀州の九度山に配流となった。
いえやっサンは浅野幸長に対し、
「監視の眼を怠るな」
ときつく命じた。
これにはいえやっサンの昌幸に対する悔しさ・憎しみ、そして恐怖が込められていた。
九度山に配流された昌幸は「真田紐」と呼ばれる紐を発明しそれを売って金銭収入を得た。
昌幸が九度山で生涯を閉じた少しあと、幸村が豊臣家からの要請に応じて九度山を脱走し大坂城に入った。
紀州藩主・浅野長晟がいえやっサンに報告するといえやっサンは手を震えさせて「しまった!」と声を出したが、「大坂に入ったのは息子のほうです」と聴くと
「幸村の親父は、煮ても焼いても喰えぬ奴」
と言い、手の震えも収まり笑いを見せた。