【2010年5月31日】
あるとき、豊臣秀吉はいえやっサンとの雑談の中で
「内府どのなら、この大坂城をどうやって落とす?」
と質問したことがある。
いえやっサンは「内部分裂を誘発して、内通者の力を借りて落とします」と、本音ではそう思っていたが、うっかり本音を口にすると黒田官兵衛(如水)のように徹底的にマークされてしまうのでうすらとぼけて
「いやあ~、私ごときにはさっぱり思い浮かびませんなァ」
と答えた。
秀吉は笑いながら
「そうかそうか。内府どのでも思いつかぬか。内府どの、この城はな、まず濠を総て埋めることよ。そうせぬことには話にならぬわ。どんなやり方でも良いから、総ての濠を埋めてしまうことだ」
と言った。
油断というものであろう。眼の前の250万石の大大名にわざわざ自分の城の落とし方を上機嫌で教えるのだ。
そんなところが、秀吉の憎めない一面だったりするのだが…
秀吉の死後、いえやっサンは大坂の陣を起こした。
城を包囲して、「あの外濠は確かに厄介だな」と思った。
そこでいえやっサンは
ふらんき国崩し
という兵器を使って大坂城を攻撃した。
国崩しとは大砲のことである。
あまり性能の良い大砲ではないのだが、いえやっサンは
「淀殿のようなオバサンを威嚇するにはちょうどいいだろう」
と大坂城を毎日毎日国崩しで砲撃した。
砲撃したと言っても、大坂城に砲弾はまず届かない。が、騒音が毎日続くので淀殿は精神的にすっかり参ってしまった。
砲弾が届かないのだから、籠城している将兵は強気だ。「くだらん脅しだ」と鼻で笑った。
ところが、珍事が起きる。
「講和じゃ!グズグズしてはいけませぬ!」
ここでいえやっサンは外濠を埋めるきっかけを得た。
そこに、本多正信が
「大御所、講和の文書には『惣濠』と書かずに『総濠』とお書きなさいませ」
と知恵を付けた。
「惣濠」と言った場合、それは城の外濠を指す。それが当時の常識だった。
ところが正信は「総濠」と書かせた。読み方はどちらも「そうぼり」だ。
講和条約調印の際、豊臣家は「『惣』と『総』を書き間違えたのだろう」くらいにしか思わなかったのだが、これが命取りとなった。
徳川家は濠を総て埋めてしまい、大坂城は裸城にされてしまった。