城ネタ2010
【2010年1月4日】 徳川慶喜。 「最後の将軍」である。 二条城で将軍に就任し、二条城で将軍を辞職した。 また、二条城で「坂本を斬るなよ」と旗本連中に指示した。 慶喜はもともと水戸藩の部屋住みだった。 7男だったので、 七郎麿 と名付けられた。 …
【2010年1月4日】 龍馬についての知識が乏しいというか、幕末全般に知識が乏しいので、龍馬のことは書かない。 その代わり、気象に関係のある話を一つ書く。 土佐藩に 日和見師 という役職があった。 日和見師は世襲では無く、能力制だった。 日和見師…
【2010年1月6日】 「奉天へ!」 これが陸軍大将・秋山好古の最期の言葉だった。 奉天の決戦。 日露戦争は「海で勝って、陸で引き分けた」戦争だった。「引き分けた」というのはオレが日本人だから贔屓目に見て言っているのであって、ロシア人に言わせ…
【2010年1月8日】 延享3年、大御所吉宗は紀州藩主・徳川宗直と深刻な表情で額を突き合わせていた。 議題は、十代将軍のことである。孫・家治が幼少だったため、もしかしたら夭折するかも知れないと思った。 そうなると、かつて自分が尾張藩と争って八…
【2010年1月8日】 松江藩に 御七里 という役職があった。「飛脚七里」とも呼ばれ、江戸と松江を往来する飛脚をこう呼んだ。 役職の成り立ちは松江藩祖・松平直政の頃に遡る。 直政が信濃松本から他国に国替えになる話が出た際、直政は 「私の官名は出…
【2010年1月13日☆】 「上様、板倉どのが上使(総大将)では九州の大名は下知(命令)に従いますまい」 島原の乱発生時、柳生宗矩はこう言って板倉重昌の島原派遣に反対したが、家光将軍は自分のお気に入りである重昌に功名を立てさせてやりたいという…
【2010年1月13日】 人間は訓練して無欲になれるか? たぶん、無理。 無欲というのは生まれつきの人がそうなのであって、生まれつきそうで無い人がそうなろうと思ってもそれは無理だろう。 保科正之は無欲だった。 地位・名声・物品。 生身の人間には…
【2010年1月20日】 水野出羽守忠友。 家治将軍の代に勝手掛老中職を務めた。 彼が幼い頃、本家の信濃松本藩主・水野忠恒が江戸城内で長門府中藩主・毛利師就に刃傷沙汰に及び、松本藩はお取り潰しとなった。 吉宗将軍は「水野家は由緒ある家だから」…
【2010年1月25日】 家紋の種類に「九曜紋」というのがある。 この「九曜紋」を家紋にしていたのが細川家と板倉家だ。 「細川九曜」は丸のマークを9つ使い、「板倉九曜」は巴のマークを9つ使うのが特徴だ。 細川家は肥後熊本54万石、板倉家は遠江…
【2010年3月5日】 上杉播磨守綱勝、変死。 寛文4年閏5月7日、出羽米沢藩主・上杉綱勝が変死した。 変死と断言出来るのは、米沢藩家老・千坂高房が綱勝の「病状日記」を残しているからだ。 この病状日記は 『削封日記』 というタイトルが付けられて…
【2010年3月8日】 天正13年11月29日、現在の岐阜県北西部を震源としたマグニチュード7.9~8.1の大地震が発生した。 東海北陸・近畿の各地域に被害が出て、山内一豊の居城・長浜城でも被害が出た。 城の中が崩れ、その下敷きとなった6歳の…
【2010年3月11日】 「あんなこと、言わなけりゃよかった…」 前越後高田藩主・松平光長は罪人として伊予松山へ護送される道中、そう思った。 松平光長は「越後騒動」の責任を問われて高田24万石を改易され、伊予松山藩久松松平家に身柄をお預けとい…
【2010年3月11日】 堀田正盛。 家光将軍の代の老中職(国務大臣)で、家光将軍が死去すると殉死した。 正盛は最後は下総佐倉11万石までに出世したが、佐倉藩主になる前、信濃松本藩主だった。 松本藩主のとき、10万石を与えられた。 10万石の老…
【2010年3月12日】 森家改易後、津山藩は一時期空白地となったが、松平宣富が10万石で入封して幕末まで続いた。 森家支配の頃は美作一国・18万6千石がまるまる津山藩の領地だったが、松平宣富は美作一国は与えられず美作のうち10万石を与えら…
【2010年3月15日】 「藤堂・山内は外様なれど准譜代」 幕府は藤堂家と山内家を「譜代に准ずる家」として扱った。 これは、関ヶ原のときに藤堂高虎と山内一豊がいえやっサンに豊臣家の内部情報を提供したためだ。 山内一豊はこのおかげで遠江掛川5万…
【2010年3月15日】 「外様など、あるだけ迷惑」 「浪人など、ゴミと同じ」 秀忠将軍から家光将軍の頃にかけての幕府上層部の考え方である。 この頃の幕府は外様大名に難癖をつけては取り潰していた。 熊本の加藤忠広なんかがいい例で、加藤忠広は土井…
【2010年3月18日】 佐賀藩の財政は蔵方(くらかた)と懸硯方(かけすずりかた)の2つに分かれていた。「二重会計」だったのだ。 「二重会計」の身近な例は北朝鮮で、北朝鮮は「共和国」としての予算(国家予算)と金正日(キム・ジョンイル)総書記…
【2010年4月5日】 豊臣秀頼は生前、一男一女をもうけている。 二人とも母親は側室で、千姫の子供では無い。 男の子は国松という名前の男子児童で、大坂城落城後に残党狩りの網にかかり8歳で生首になった。 女の子も残党狩りの網にかかったが、女の子…
【2010年4月6日】 「江戸・京都・大坂十里四方、上知して天領とする」 天保の改革で首席老中・水野忠邦は「上知令」というトンチキな法律を実行しようとした。 「上知令」は江戸・京都・大坂近辺の大名の領地を取り上げて天領(幕府の直轄地)にしよう…
【2010年4月7日】 江戸時代中期以降、山形は「左遷地」だった。 まず、大老職・堀田正俊の子・正仲が下総古河から出羽山形に転封となった。 堀田正俊は綱吉政権樹立の最大の功労者だったが、時が経つにつれ両者はすれ違うようになり、綱吉将軍は稲葉正…
【2010年4月8日】 春日局が土佐浦戸に隠れ住んでいたことを知る人は少ない。春日局がまだお福と呼ばれていた頃の話だ。 お福は斉藤利三という人の娘だ。 斉藤利三。 明智光秀の家臣である。 本能寺の変のあと、利三は秀吉に敗れ光秀ともども殺害された…
【2010年4月8日☆】 豊臣秀吉は生涯でただ一度、とても陰湿な手口で人のいのちを奪ったことがある。 織田家の軍事将校に佐々成政という者がいた。 柴田勝家が「北陸方面司令官」になったとき、この佐々成政は勝家の寄騎(部下)となった。 勝家は秀吉と…
【2010年4月9日】 人柱。 一般的に「ひとばしら」と読む。 人によっては「じんちゅう」と読む人もいるが、この項では「ひとばしら」と読んで欲しい。 慶長13年、堀尾吉晴は松江城の本丸の石垣と天守閣の土台石垣が完成したのを見て 「ああオレ、ホン…
【2010年4月12日】 蒲生秀行。 浮き沈みの激しい人生を送った大名である。 父・氏郷の死後、陸奥会津若松92万石を相続した。 が、秀行は92万石と同時に家臣団の権力争いも相続した。 蒲生家の内訌は家光将軍の代に蒲生家が無嗣断絶になるまで続い…
【2010年4月14日】 細川忠興が豊前小倉39万石を与えられたとき、小倉藩領内に船島という小さな、誰も住んでいない島があった。 この島はのちに 巌流島 と呼ばれる。 巌流の語源は「巌流」という流派の兵法(剣術)のことである。 この巌流の使い手…
【2010年4月14日】 一柳直末。 秀吉が長浜城主になった頃からの家臣だ。 あだ名を「熊」という。 怪力だったことからこのあだ名が付いた。 秀吉にかわいがられ、主要な合戦には全て従軍している。 この「怪力熊男」は秀吉のもとで美濃軽海西6万石を…
【2010年4月15日】 「徳川義直は春姫を愛していたので、なかなか側室を持たなかった」 本当にそうか? 実際に徳川光友が生まれたのが寛永2年、春姫が死んだのが寛永14年だ。 春姫が死ぬ12年も前に光友が生まれているではないか。光友の母親は家…
【2010年4月19日】 東北地方は大飢饉が何回かあった。 そのたびに藩領内に大きな被害が出た。 久保田藩も例外ではない。天明・天保と大きな飢饉に見舞われた。 久保田藩天保の飢饉について、『天保凶飢見聞記』には 「倒れた馬にかぶりついて生肉を食…
【2010年4月20日☆】 藤堂高虎はもとは大和大納言・豊臣秀長の家臣だった。 秀長の死後、跡を継いだ秀保が事故死すると浪人した。 それを秀吉がスカウトした。スカウト料は伊予板島7万石。板島はのちの宇和島だ。 高虎は朝鮮出兵のときは漆川梁海戦や…
【2010年4月20日】 平沼騏一郎。 美作津山藩士・平沼 晋の次男として生まれる。 明治21年、帝国大学法科大学を首席で卒業。以後、司法畑を歩み続ける。 明治31年、判事から検事に転身。のちに大審院次席検事に就任する。 次席検事時代に騏一郎は…