【2010年4月5日】
豊臣秀頼は生前、一男一女をもうけている。
二人とも母親は側室で、千姫の子供では無い。
男の子は国松という名前の男子児童で、大坂城落城後に残党狩りの網にかかり8歳で生首になった。
女の子も残党狩りの網にかかったが、女の子はいえやっさんが「殺すに及ばず」といのちは助けたが
「尼にせよ」
と命じて鎌倉の東慶寺に入れた。
これは豊臣家の血筋を完全に絶やすためで、この女の子は生涯男と関係を持たなかったため、豊臣家の血筋はこの女の子の死をもって絶えた。
この女の子は天秀尼と呼ばれる尼になった。
彼女の入った東慶寺は「駆込寺」として知られる。「駆込寺」は「縁切寺」とも呼ばれ、ここは配偶者暴力をする夫や内縁の夫と縁を切るために女性が駆け込む寺だった。配偶者暴力はこの時代からあったもので、東慶寺ではそうした女性を守り続けて来た。
この東慶寺に、配偶者暴力とは事情の違う母子が救いを求めて駆け込んで来た。
母子は会津藩加藤家の家老・堀 主水の妻子で、堀 主水は主君・加藤明成と不仲になって拷問されたうえ殺害された。
加藤明成は「次は妻子の番だ」と主水の妻子の殺害を図ったが、妻子のほうが先手を打って東慶寺に駆け込んだ。
天秀尼は最初困った。
東慶寺はもともと配偶者暴力に苦しむ女性の「縁切寺」なのだ。主水の妻子の場合は事情が違う。
しかし、天秀尼は
「東慶寺を、困った女性全てを救える寺にしよう」
と思った。
東慶寺には加藤明成がしつこく主水の妻子の身柄引き渡しを迫り、終いには「寺を焼き払う」と通告して来た。
「加藤式部少輔を取り潰すか、東慶寺を取り潰すか、二つに一つ」
と自らの意思を伝えた。
「いのちに代えても、主水どのの妻子は守って見せる」
千姫はこの義理の娘の意思の強さに胸を打たれた。
「わかりました」
利勝は以前、堀 主水が隠れていた高野山に圧力をかけて主水を加藤家に引き渡したのだが、それだけでは納まらない明成を「わがまま者」と判断した。
利勝は会津42万石を取り潰し、主水の妻子は助かった。
この一件が広く伝わって「東慶寺は女人救済の寺」として知られるようになった。