【2010年4月6日】
「江戸・京都・大坂十里四方、上知して天領とする」
天保の改革で首席老中・水野忠邦は「上知令」というトンチキな法律を実行しようとした。
「上知令」は江戸・京都・大坂近辺の大名の領地を取り上げて天領(幕府の直轄地)にしようというもので、理不尽そのものだった。
この「上知令」に紀州藩の領地が引っかかった。
紀州藩の領地の内訳は
紀伊一国
375,000石
伊勢国松阪
180,000石
合計
555,000石
だった。
このうち、伊勢松阪18万石が「上知令」に引っかかった。
最初、紀州藩は猛反発をした。が、忠邦は聞く耳を持たない。忠邦は「オレは改革者だ」という熱に浮かれていた。
とうとう紀州藩は
「御三家の領地は権現様より与えられし聖地。召し上げるなど、もってのほか」
といえやっサンの名前まで出して抵抗した。
それでも忠邦は松阪18万石を没収しようとした。
紀州藩は
「水野越前守を潰すより他に無い」
と結論を出した。
紀州藩はまず、次席老中・土井利位を抱き込んだ。
土井利位は大坂城代として大塩平八郎の乱を鎮圧した功績で次席老中となった人物だ。
実は利位も「上知令」で困っていた。
土井家は下総古河8万石だが、8万石のうち2万石が大坂周辺にあった。「飛び地」である。
最初、「上知令」の話が出たときに利位は「飛び地を手放してもいいかな」と思った。
が、大坂周辺の古河藩の領民が
「何卒、古河藩の領民のままでいさせて下さい」
と懇願して来た。
大坂の古河藩領は年貢がゆるく、領民にとっても「上知令」は死活問題だったのだ。
領民は懇願を続けたため利位は「上知令」反対に回った。
利位は「上知令」を潰すために忠邦の腹心・鳥居耀蔵を抱き込んだ。
鳥居耀蔵は「水野の提灯持ち」として知られるが、幕府に対する忠誠心は強かった。
利位は
「御三家の領地まで手を付けるのは、間違っていると思わぬか」
と耀蔵に言った。
耀蔵も利位に賛同し「上知令」反対に回った。
腹心にまで反対されたら処置無しである。
「上知令」は撤回された。
また、「反水野」の声を抑えきれなくなった家慶将軍は忠邦を罷免して利位を首席老中に任命した。
これ以降、紀州藩の領地に手をかけるような者は現れていない。