もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

佐賀城

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【2010年3月18日】

佐賀藩の財政は蔵方(くらかた)と懸硯方(かけすずりかた)の2つに分かれていた。「二重会計」だったのだ。

「二重会計」の身近な例は北朝鮮で、北朝鮮は「共和国」としての予算(国家予算)と金正日キム・ジョンイル)総書記のためだけに使われる「宮廷費」の予算を分けている。もちろん、国家予算が正規の予算であることは言うまでもない。

佐賀藩では蔵方が「国家予算」、懸硯方が「私予算」だった。

佐賀藩の石高は357,000石。さぞかし裕福かと思いきや、蔵方の収入は8万石程度だった。

これには、理由がある。

佐賀藩には蓮池・小城・鹿島という3つの支藩があった。

この支藩は独立した藩では無く、佐賀藩の領地内の分家だった。こういうのを内分知という。

支藩の石高は

蓮池藩

52,000石

小城藩

73,000石

鹿島藩

20,000石

だった。

合計145,000石を佐賀藩の357,000石から割いた。

佐賀藩は212,000石の大名と同じである。

その残った212,000石からさらに万石級の家臣に領地を割く。

佐賀藩の収入8万石は「四公六民」に照らし合わせると20万石。とても35万石の大名の収入には程遠かった。

そこで佐賀藩では藩主が代々納税された銀を懸硯に納めて貯蓄し、藩の正規の予算である蔵方と分離した。懸硯方の担当者は代々藩の重役が任命された。

何故懸硯方が必要になったのか?

8万石で足りなければ年貢を増税すればそれで済むのだが、あえて懸硯方を作った。

それは懸硯方が

機密費

の性格を持つものだったからだ。

正規の予算に計上出来ない秘密予算。どこの藩にもあったのだろうが、佐賀藩はこれを明確に分離した。

佐賀藩もまた他藩同様、江戸時代中期以降は財政難に悩まされ、ついに懸硯方の収入の一部を蔵方に入れなければならない事態になった。

蔵方に入れるということは、その分は機密費として使えなくなるということだ。

幕末、懸硯方の予算を復活させたのが鍋島直正で、直正は懸硯方の予算を使って清国・オランダとの貿易で銀1万貫を得た。

佐賀藩の収入8万石は銀に換算すると7千貫。1万貫はそれを超える。

どんな権力にも機密費の必要はついて回る。

直正は貿易を利用して機密費の予算を守った。