【2011年12月16日】
「オレの膳は1日2食にしてくれ。3食食べるのは口の奢り、腹の奢りだ」
と命じた。
室町時代から江戸時代初期にかけては1日2食が普通であり、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗っていた頃は「1日2食食べられるようになった」と大喜びしていたくらいだった。
江戸時代も中頃に入ると、1日3食が当たり前になった。
しかし、吉宗将軍は「1日2食でいい」と言い、また、食材についても
「旬の走り(初物)は風味も悪くて大した栄養にならないから、一般に出回っているものを使え」
と命じた。
吉宗将軍は初鰹に何両(数万円~数十万円)も出すような連中をアタマから馬鹿にしていたのだ。「ただの無駄遣いだ」と。
吉宗将軍が好んで食べた献立が
(朝)焼き飯、唐辛子味噌
(晩)玄米ごはん、汁物、野菜中心のおかず1品と酒を少量
と伝えられている。
吉宗将軍は猪を殴り殺すくらいの腕力と体力の持ち主だったが、粗食であっても玄米と野菜中心の食事がこの腕力と体力を支えたのだろう。
また、吉宗将軍もおやつや夜食が欲しくなるときがあったが、そのときはおやつは朝食の残りを、夜食は夕食の残りを食べた。
朝食に出て来る「唐辛子味噌」とは味噌に唐辛子を混ぜてみりんで伸ばし、それを弱火で練り上げたものだ。
では、吉宗将軍は粗食で味音痴だったかというと、そんなことは無かった。
ある日、夕食の膳のおかずが鯛だった。
鯛を一口食べた吉宗将軍は
「これは、しめ鯛だろう」
と言った。
吉宗将軍は紀州にいた頃は大の魚好きでよく魚を食べていた。そのため、魚の鮮度くらいは一口食べるだけでわかる。
「しめ鯛」とは死んだ鯛のことだ。
膳の係りの者が鯛を納入した魚屋に問いただすと
「あいにくその日は活きた鯛を仕入れられなかったので、死んだ鯛を納めました」
と打ち明けた。
この一件以降、吉宗将軍を「どうせ味音痴なんだろう」と馬鹿にしていた連中は態度を改めた。
吉宗将軍は夕食の玄米ごはんをおにぎりにしたものを夜食に食べた。
玄米おにぎりを頬張りながら、米相場の研究等を夜更けまで続けた。
米価の乱高下との格闘。
将軍・徳川吉宗の宿命でもあった。
米価の安定は幕府政治の根幹に関わる問題だった。吉宗将軍の30年は米価との戦いでもあった。
吉宗将軍のあだ名は「米公方」である。