【2011年12月16日】
土井大炊頭利里。
唐津から古河に転封になった際、利里は一人の医師を古河へ連れて行った。
その医師、名をば
河口信任
という。
土井利里は古河に転封となったあと、京都所司代に任命された。このときも河口信任は利里に同行している。
利里に同行した信任は
「殿、腑分けのために罪人の遺体を下げ渡して下さりませぬか」
と申し出た。
「腑分け、か…」
土井家では唐津へ転封した利益が学問好きだったため、それが医学であれ他の学問であれ大切にする気風があった。
「よかろう」
利里は信任に京都所司代の権限で刑死した首無し遺体2体と生首1つを下げ渡した。
明和7年4月25日。
遺体と生首を下げ渡された信任は早速腑分けに取りかかった。
腑分けと言うと、どうしても杉田玄白が第一人者と見られがちだが、頭部・眼球の腑分けとなると、これは河口信任が第一人者だ。
信任は利里から受け取った生首を丹念に腑分けした。
脳味噌の色・形、眼球のつくり…
これまで、解剖書は人の手で行われ、それを医師が後ろから見学し、さも自らが執刀したように書くものが普通であった。
しかし、信任は自らメスを取って生首の腑分けをした。
「やはり、実際にメスを取って腑分けせねばわからぬことばかり…長崎で学んだことがここで生きた」
信任は感動に震えながら頭蓋骨をこじ開け、眼球をほじくり出した。
こうして書かれたものが『解屍編』である。
人間の頭部・眼球のつくり・しくみを初めて書物にしたものだ。
これまでの慣習を破り、自らが執刀して 腑分けした『解屍編』。それゆえに記述も詳しく表現豊かだ。
文化8年、河口信任は75歳でこの世を去った。
信任は生前、のちに古河藩家老となる鷹見泉石にも影響を与えた。
鷹見泉石は藩主・土井利位とともに雪の結晶の研究に打ち込んだことでも知られる。