【2009年4月3日】
この村に、作兵衛という百姓がいた。
父・作平と母・ツルと妻・タマ、それに長男・作市と長女・カメと次女(名前不明)の7人家族だった。
作兵衛は始めは貧農だったが、家族一丸となって朝から晩までよく働き、のちに貧農から普通の生活が出来るまでになった。
この作兵衛一家を享保の大飢饉が襲った。
享保の大飢饉は西日本を中心とした飢饉で、伊予国の諸藩にも被害が出た。
飢饉の原因はウンカという虫が大量発生したためだ。
ウンカ。
漢字で「雲霞」。
何かがたくさん押し寄せることを「雲霞のごとく」というが、その語源になったのがこの虫だ。
体長5mm程度の虫で、大量発生して農作物を食べ尽くす迷惑な虫だ。
このウンカが西日本一帯で大発生したために大飢饉となった。
松山藩領内でも、飢えに苦しむ人たちが出始めた。
だいたいの藩はこういうとき「救恤米」として備蓄米を放出するのだが、何を血迷ったか藩主・松平定英は「救恤米」を出さなかった。
これは遠回しに
「おまえたちが飢えて死んでも、オレは知らない」
と言っているのと同じだ。
筒井村でも餓死者が続出した。
そしてとうとう作兵衛も飢えのためにからだが動かなくなった。
作兵衛は米俵に麦の種籾を詰めたものを枕代わりにしていた。
隣近所の者たちが
「それを食べるんぞな。死んだらいけんぞな」
と言うと、作兵衛は
「農は国の本。種は農の本。その場しのぎのために来年の種を無くすわけにはいかない」
と言い、ついに餓死した。
村人たちは作兵衛の遺した麦の種籾には手を出さなかった。
そして翌年その種籾を蒔いた。その年は豊作で、村人たちは作兵衛にこころから感謝した。
餓死者3,500人。
作兵衛を含め、松山藩ではこれだけの犠牲者が出た。
が、松山藩士には1人の餓死者もいない。
そりゃそうだ。
領民が死んでも、自分たちはお構い無しで備蓄米食ってたんだから。
このことは江戸の吉宗将軍の知れるところとなった。
定英を呼びつけた吉宗将軍は怒りを爆発させた。
「基本は人のいのち!それなのに、おまえたちは領民が飢え死にしても知らん顔だったではないか!!」
定英は江戸で謹慎処分になり、その後急死した。
それは作兵衛をはじめとする餓死者の祟りだと言われた。