【2011年12月14日】
慶長19年7月28日。
この日、一人の改易大名が信濃松本藩主・小笠原秀政のもとへお預けとなった。
名をば、佐野信吉という。
信吉の「吉」は豊臣秀吉の「吉」で、豊臣恩顧の大名の一人だった。
彼は元々富田家の人間で、秀吉が健在だった天正20年に秀吉の命令で下野佐野藩主・佐野房綱の養子となり、文禄元年に下野佐野3万9千石を相続した。
信吉自身には特に問題が無かったのだが、実兄・富田信高に問題があった。
富田信高はもともと伊勢安濃津(のちの津)城主だったが、関ヶ原の際の籠城戦での善戦を認められて伊予宇和島10万石に加増・転封された。
しかし、信高は慶長10年6月に訴えられる。
信高を訴えたのは坂崎直盛という人物で、この坂崎はのちに「千姫騒動」で改易される多血質の男だ。
告訴理由は「坂崎家の家臣を斬った宇喜多左門という者を信高が匿っている」というものだ。
しかし、このときは「証拠不十分」で坂崎直盛は敗訴、富田信高もお咎め無しだった。
ところがこの裁判は奇妙な展開を見せることになる。
慶長15年~17年のことと推測されるが、宇喜多左門がひょっこりと宇和島に現れるのだ。
左門は慶長10年に逃亡以後、日向延岡藩主・高橋元種に匿われていた。しかし、左門はひょっこりと宇和島に現れ、信高の妻に
「生活が厳しいので、米300石都合して下さい」
と無心した。
富田信高の妻は左門の実の叔母だ。
真っ直ぐな性格のこの叔母は、「困っている甥のためならば」と米300石援助する旨を書いた手紙を渡した。
この手紙が、坂崎サイドへと渡ってしまう。左門の側近の1人が裏切って坂崎家へ走ったのだ。
「ほら見ろ。やっぱり富田家は左門を匿っていたではないか!」
坂崎直盛は富田信高を再告訴した。
この再告訴では、信高が延岡へ毎年左門の生活費として米100石を援助していた事実まで明らかになった。
再告訴の裁判長である秀忠将軍は
「富田信高・高橋元種両人は犯人隠避の罪で改易。坂崎直盛の勝訴とする」
という判決を下した。これが慶長18年10月24日のことである。
そして、この事件の連座で佐野信吉はお取り潰しとなった。
信吉は身柄を松本に移された。
小笠原家が播磨明石へ国替となっても信吉は松本に残った。
元和8年2月18日。
佐野信吉は死亡と同時に赦免され、息子が旗本として取り立てられて明治まで続いた。