【2011年12月13日】
織田信長が重視したもの。
それは、情報だ。
桶狭間。
世間一般には単なる奇襲と見られているが、それは違う。
信長は梁田政綱という者を使って今川家の動きを逐一つかんでいた。いつ駿府を出発するのか、誰が駿府に残るのか、そして、今川義元が田楽狭間で休息を取ること。
信長はこれら全てを梁田政綱を通じて知っていた。外からの眼には奇襲に見えても、信長にしてみれば計算ずくの襲撃だったのだ。
桶狭間の戦いのあと、論功行賞が行われた。
その席上、信長は今川義元の首を挙げた毛利小平太よりも梁田政綱に大きな恩賞を与えた。
これは信長が情報を重視している何よりの証拠だ。
信長は
「梁田からの報告が無ければ、義元を襲うことは出来なかった」
と思った。
当然のことなのだが、この「当然のこと」を重視しないために消えていく大名がいたのも戦国時代だった。
情報の重視は、いえやっサンにも受け継がれた。
関ヶ原の戦後処理で遠江掛川城主・山内一豊が5万石から一躍土佐一国・浦戸20万石に4倍加増された。
その理由は、一豊の妻・千代が大坂の様子をいえやっサンに報告したためだ。
もう一人、大幅加増の恩恵を受けた者がいる。
藤堂高虎だ。
高虎は秀吉が体調不良を訴えた頃から豊臣家の内部情報を大小問わず全ていえやっサンに流し続けた。
高虎は関ヶ原の戦後処理で伊予板島8万石から伊賀一国・上野20万石を与えられた。さらに、大坂の陣のあとには伊賀一国に加えて伊勢国に加増され伊勢津32万石の大大名にまで出世した。
幕府は「藤堂・山内は譜代同然」と扱った。
吉宗将軍もまた、情報を重視した一人だ。
吉宗将軍は八代将軍になるために江戸城から大小様々な情報を得た。そして、その情報をもとに的確に行動し、ついには徳川継友を押し退けて八代将軍の座を獲得した。
吉宗将軍は八代将軍に就任すると御庭番を創設し、さらなる情報収集に努めた。
情報を武器にする。
信長は梁田政綱から得た情報をもとに今川義元を討ち、天下取りのきっかけをつかんだ。
ただ、惜しむらくは「人のこころが発する情報」を見落とした。そのために明智光秀に殺害されてしまった。
その点、吉宗将軍は人の気持ちのわかる人だったので失敗しなかった。
情報を重視すること。
これは、「彼を知り、己を知れば百戦してあやうからず」に通じる。
成功者たちは、みな情報を重視している。