【2011年10月12日】
流離貴族。
流浪する貴族のことで、室町時代後半にはこれが多く発生した。
津川義近という者がいた。
この者はかつて
という名前だった。
斯波・細川・畠山。
管領職に就くことが出来る家柄という意味で、管領職とはいまの総理大臣に相当する。
斯波義銀は尾張国の守護だった。しかし、織田信長に追放された。
義銀は流離貴族となってしまい、西に向かって流浪した。
流浪の果てに河内国にたどり着き、そこの守護である畠山高政の庇護を受けた。このときに義銀はキリシタンになった。
キリシタンになった義銀は「神の御加護のもと、生まれ変わった」とし、名前を
津川義近
と改めた。
「生まれ変わった」義近は信長と和解し、娘を信長の弟・信包に嫁がせて織田家の身内となった。
信長も義近を「一門貴種」として別格扱いにした。「貴種」とは貴族のことだ。
本能寺の変ののち、義近は秀吉に仕えた。
秀吉の下では主に関東・東北地方の外交を担当した。東北には元々斯波家の領地があり、山形の最上をはじめ斯波家の分家がこれらの領地を支配していた。
義近は昔の名前である斯波義銀として東北地方の大名と「豊臣政権下に入るよう」交渉した。
しかし、義近は秀吉に北条氏直助命を願い出たため、秀吉の怒りを買って失脚した。
またしても流離貴族に逆戻りになった義近を、いえやっサンが拾った。
「名門好き・名家好き」のいえやっサンは「元・斯波義銀」のこの男に捨て扶持を与えた。義近が死ぬと、次男・近利が津川家を継いだ。
近利はいえやっサンの異母弟・松平定勝の客分として過ごした。
近利は定勝からの捨て扶持で61歳までのんびりと生きてその生涯を終えた。
近利には男子が3人いた。
そのうちの次男・近義が定勝の嫡男・松平定行に付いて伊予松山に入った。
そしてそのまま松山藩士となり、幕末まで続いた。
室町時代は応仁の乱を分岐点に血筋の入れ替えがあった。血筋の「新旧交代」である。
下剋上とは、単に下の者が上の者に取って代わるだけでは無い。それまで「貴種」だった者が昨日までの「身分卑しき者」と入れ替わる。そして「身分卑しき者」の血筋が新たに「貴種」となるのだ。
武田晴信に追放された信濃の小笠原家は江戸時代にも大名として存続出来たが、残念ながら斯波家は大名としての存続は叶わなかった。