【2011年9月6日】
山内一豊が近江長浜2万石の大名になったとき、一人の男を現地採用した。
その男、名をば田中孫作定重という。
世間一般に孫作と呼ばれるこの男は、のちに山内家が土佐浦戸20万石(土佐高知24万石)を与えられるきっかけを作った。
山内一豊は豊臣秀吉の小田原攻めに従軍し、山中城攻撃の功績で近江長浜2万石から遠江掛川5万石に加増・転封となった。
掛川城主となって10年。
誰の眼から見ても「次は徳川様の天下」だった。
豊臣家の内部にも藤堂高虎のように露骨にいえやっサンにすり寄る者もいたが、一豊は迷っていた。
唐入り(文禄・慶長の役)に参陣しなかった一豊は、平穏な大名ライフを送っていた。平穏の次に考えるのが既得権の確保で、こちらは一豊よりも妻・千代のほうが真剣に考えていた。
その既得権の確保のために決断を迫られたのが関ヶ原だった。
一豊はいえやっサンの上杉景勝討伐軍に従軍し、下野諸川まで軍を進めていた。
そこへ、衣服ボロボロの孫作がやって来た。
一豊はギョッとした。
衣服はボロボロ。
頭はボサボサ。
おまけに刀まで差していない。「孫作、何事ぞ…」
一豊はギョッとして孫作に尋ねると、孫作は雨に濡れた手紙を一通と文箱を差し出した。
一豊は手紙から先に眼を通した。
そこには
「大坂で石田三成が挙兵して諸大名の妻子を人質に取ろうとしています。もし、私たちが人質に取られても自害しますから、どうか気にせず徳川方として戦って下さい。それから、文箱は封を切らずにそのまま徳川様にお渡し下さい」
と書かれていた。
孫作は大坂から諸川までの間に盗賊に襲われたが、千代の手紙と文箱だけは守りきって一豊に渡した。
一豊は単身、小山のいえやっサンの陣へと駆けた。
千代の手紙と文箱の中身を見たいえやっサンは
「対馬守どのの忠節浅からず。この通り」
と頭を下げた。
いえやっサンは一豊が大坂の情報を伝えてくれたうえ、文箱をそのまま提出したことを評価した。
文箱の中身は石田方からの勧誘の手紙だった。同様の手紙は小早川秀秋たちにもバラ撒かれていたが、現物をそのまま提出したのは一豊だけだ。
関ヶ原後、一豊は手紙の一件により土佐浦戸20万石の国持大名となった。
長浜城は最愛の娘・よねを失った悲しみの城だが、同時に長浜城主となったことで田中孫作を得た。
一得一失と言うべきか。