【2010年9月22日】
内藤信成。
松平広忠というのは、いえやっサンの父親だ。
母親の素性がいまいちはっきりしない。たぶん身分の低い女性だったのだろう。そのへん、土井利勝の母親と似ている。
内藤信成もまた、土井利勝同様胎児の状態で嶋田景信という家臣に押しつけられた。
嶋田景信は押しつけられてすぐ「御落胤の父親なんて、困る」と思った。
景信は同じく松平家の家臣である内藤清長に「どうしようか?」と打ち明けた。
詳細を聴いた清長は
「生まれた子供が男子か女子か、それから考えればよい」
と景信に言った。
やがて景信に押しつけられた女性は男の子を生んだ。
「男の子か…」
景信は清長に生まれたての男の子を見せると「我が家の子として育てよう」と内藤家に引き取って養子にした。
徳川家には「御落胤」の話が、よくある。
松平長七郎がいい例で、記録に残さなけりゃいいものを、どういうわけか記録に残す。
また、小笠原権之丞なんてのもいる。小笠原権之丞はいえやっサンの「御落胤」のくせに大坂の陣では大坂方に付いた。
それでも、家系図に権之丞の存在は記録されている。変わった家だよ、徳川家。
信成は養父・清長とともに戦場で活躍した。
その後も長篠や長久手で活躍し、いえやっサンの関東国替の際には伊豆韮山1万石を与えられてとうとう大名になった。
いえやっサンはこの「弟」を信用した。
その証拠に、関ヶ原後に駿府4万石を与えられた。徳川家にとって「准本拠地」である駿府城を与えたのだ。
やがて徳川頼宣が駿府城主となると、信成は持高4万石のまま近江長浜城主に転じた。
長浜は豊臣家の中の近江閥の連中にとっては「聖地」だった。近江閥の連中は秀吉が長浜城主だったときに採用された連中だから、いえやっサンの「弟」が入封することに「聖地」を踏みにじられる感覚がしたであろう。
そこがいえやっサンの狙いだったんだろうと思う。
伏見城も破却処分になっているところから、この破却処分は秀吉の存在を否定するための処分だったと言える。