【2011年10月13日】
田中兵部大輔吉政。
筑後一国・久留米33万石の大大名だ。
近江の百姓の子として生まれ、秀吉が長浜城主だった頃に秀吉の家臣・宮部継潤に仕えた。秀吉から見れば陪臣(またもの)である。
宮部は吉政に7石を与えた。
7石。
田中吉政はたった7石からスタートした。吉政が「プチ太閤」と呼ばれる所以だ。
この頃のことである。
吉政が升を枕に外で昼寝をしていると、目の不自由な男性が眠っている吉政を起こした。
「ん?どした?」
吉政は相手が目が不自由なのを見て、起こされた不愉快さを抑えて聞いた。
この男性は
「あなた様は将来、国持になるお方です。そんなお方が升を枕にしてはいけません。升を枕にしていると1,000石程度の小身で終わってしまいますよ」
と言った。
「たった7石のこのオレが、国持大名」
吉政は上機嫌になってこの男性に酒1升を与えた。
吉政は鼻歌混じりに帰宅した。
本能寺の変のあと、山内一豊たちと共に羽柴孫七郎(のちの豊臣秀次)の付家老となった。
吉政は筆頭家老として近江八幡山城内で生活した。このとき3万石を与えられた。
吉政は事あるごとに秀次を諫めた。秀次のようなボンクラが賜死となるまで大名(領主)として大きな間違いを犯さなかったのには、この吉政の存在が大きい。
秀次が賜死となると、独立した大名となった。
三河岡崎5万7千石。
たった7石から5万7千石。
吉政は「国持には程遠いが、城持にはなれた」と満足した。
秀吉が薨去すると吉政はいえやっサンにすり寄った。そして関ヶ原では東軍に付いた。
三成の身柄をいえやっサンに差し出した吉政は、その功績により筑後一国・久留米33万石を与えられた。
慶長5年11月18日。
久留米に入封した吉政は、自分の行列を見物に来ている群衆の中に見覚えのある顔を見かけた。
かつて、「国持大名になるお方が升を枕にしていてはいけません」と言ってくれた、あの目が不自由な男性だ。
吉政は馬から飛び降りて男性に駆け寄った。
駆け寄って手を握り
「よくここまで来てくれた。さ、オレと一緒に国持になった祝い酒を飲んでくれ」
と男性を連れて久留米城に入城した。
楽しい酒になった。
たった7石の自分を「国持になれる」と言ってくれた男性。
吉政は男性の生活を保障すると約束し、実際その通りにした。