【2011年4月20日】
天和元年。
肥前唐津藩主・松平乗久のもとに家門大名(親藩)である陸奥白河藩主・松平忠弘が訪れた。
松平忠弘は乗久に
「無理を承知で頼む。そなたの長男・乗守どのを我が娘・福姫の婿養子として欲しい。この通りじゃ」
と頭を下げた。
松平忠弘の父は幕府の重鎮にして初代大坂城代を務めた松平忠明だ。そんな名家に、しかも長男を出してくれというのは、乗久にとって奇妙な話だった。
「下総守どの、何故、我が藩なのでございますか?」
乗久は疑問に思うところをぶつけた。唐津藩松平家は十八松平家の1つ、大給松平家だが、幕府内では家門では無く譜代で扱われる。家格で言えば家門大名の子供のほうがいいじゃないか、と乗久は思ったのだ。
松平忠弘は隠さず話した。
「一つ、我が子・清照は健康上問題があること。一つ、乗守どのの秀才ぶりは有名であること」
確かに、唐津藩松平家の血筋からは老中職や大坂城代を多く輩出した。あの松平乗邑もこの家の出身だ。
「頼む!この通り!!」
こうまで頭を下げられては乗久も断れない。
松平乗守は福姫の婿養子となることが決まった。乗守は福姫と結婚すると
松平忠尚
と名を改め、白河藩嫡男となった。
しかし、白河には廃嫡された忠弘の長男・清照がいる。その清照には斎宮という息子がいた。
忠尚は頭が良く優秀だったが、家臣たちの小さなミスまであげつらって厳しく当たった。そのため、忠尚は人望が薄かった。
このため、斎宮を次の藩主に推す黒屋数馬の一派と忠尚を支持する奥平金弥の一派が真っ向から対立し、とうとう御家騒動となった。
幕府側の記録では、松平忠弘のことを
お人好しで馬鹿
と記録している。
馬鹿は馬鹿なりに考えて忠尚を婿養子に迎えたが、結局御家騒動となった。
そこへ、今度は福姫が病死した。忠尚はこれで白河藩松平家の婿の立場を失った。
福姫の死で事態は一気に斎宮派有利に傾いた。そして忠尚派の奥平金弥のグループ93人が白河藩を退去する事態が発生した。
93人脱藩。
ついにこの騒動は幕府による裁判となった。
裁判長である綱吉将軍は
「奥平金弥以下忠尚派の中心メンバーは流罪。忠尚は白河藩から2万石分知のうえ別に家を立てるように」
という判決を下した。
幕府側の記録では、「忠尚を白河藩から取り除く」と記されている。
「分家」と記されていないところが哀れである。