もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

大阪城公園(大坂城)

f:id:Hanzoandmozu:20191129090735j:plain

【2011年2月24日】

内藤弌信。

江戸時代中期に大坂城代を務めた譜代大名だ。

駿河田中(いまの静岡県藤枝市)5万石の藩主で、内藤家は譜代大名の中でも名家であった。

この弌信は、享保3年8月2日罷免された。

しかし、罷免されたことについて『徳川実記』等は触れていない。ただ単に「職を辞す」としか記していない。

江戸時代中期に庄内藩鶴岡藩)の江戸留守居を務めた犬塚宇大夫は『犬塚氏手記』という物を書き残している。

ここに、内藤弌信罷免の理由が記されている。

理由は、吉宗将軍による「口頭試験」に不合格だったためだ。

吉宗将軍は将軍職に就任早々5人の老中職に「口頭試験」を行っている。

5人に対し、「江戸城の櫓の数は幾つか?」「コメの備蓄はどれくらいか?」「武器・弾薬の数はどれだけか?」等の質問をしたのだ。

結果、首席老中・土屋政直が一部の質問に答えられただけで、残りの4人は1問も答えられなかった。

吉宗将軍は笑いながら「間部詮房ならば、全て答えただろうに」と言った。土屋政直以外は全員不合格だと遠回しに言ったのだ。

吉宗将軍はこれと同じことを内藤弌信に対しても行った。

大坂城の櫓の数は幾つか?」「コメの備蓄はどれくらいか?」「武器・弾薬の数はどれだけか?」等の質問をした。

弌信はどれ一つとして満足に答えられない。

吉宗将軍は

大坂城代には赴任の際、白紙の委任状を手渡している。これがどんな意味かわかるか?」

と穏やかな口調で弌信に言った。

口頭試験に満足に答えられなかった恥ずかしさから、弌信はうなだれたままだ。

吉宗将軍は続ける。

「よいか豊前守、白紙の委任状には何でも書き込めるのだ。それは軍権を与えることも意味しておるのだぞ」

弌信は大坂城代という役職の重大さに改めて気付いた。が、気付くのが遅かった。

「そのように何もわからない者に大坂城代は任せられぬ。よって、職を解く」

吉宗将軍は静かな口調で厳しい処分を言い渡した。

弌信は享保の改革の人身御供にされた。「こんな勤めぶりでは使えませんよ」と見せしめにされたのだ。

しかし、吉宗将軍は弌信を見せしめにするだけで「はい、おしまい」にはしなかった。

間部詮房が死去したのち、弌信を越後村上に転封した。村上は譜代大名の中でも名門の家柄の者が藩主を務める地で、吉宗将軍は弌信を村上藩主にすることで配慮した。

この優しさが吉宗将軍の性格である。