もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

彦根城

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【2011年12月9日】

天和元年12月10日。

近江彦根藩主・井伊直興は一人の元大名を預かった。

その者、名をば酒井忠能という。

酒井忠能は「高輪の下馬将軍」とあだ名された大老酒井忠清の弟だ。

忠能は駿河田中4万石の藩主だったが、田中藩及び前任地の信濃小諸藩での苛政を咎められてお取り潰しとなった。

特に、小諸藩での苛政は本当に酷いものだった。

忠能は上野伊勢崎から3万石をもって信濃小諸藩主となった。忠能は寛文10年、小諸藩領内で「寛文の総検地」と呼ばれる検地を実施した。

持高3万石に対して7万7千石。

2倍以上の増税となったのだ。さらにそこへ、領民の家・窓・床・家畜等に課税したのだ。

そして、年貢や税が未納になると財産や農具を容赦無く没収した。

耐えかねた小諸藩領民は江戸へ直訴しようとしたが、碓氷峠の関所で取り押さえられた。

しかし、関所役人は領民たちの話を聞くにつれ、「これはあまりにひど過ぎる」と江戸城に領民の訴えを届けた。

幕府は七分三分で領民に有利な判決を出した。忠能は酒井忠清実弟のためお取り潰しは免れたが、駿河田中へ転封となった。

このとき、小諸の領民は

地獄極楽さかいにて

日向出てゆくおきは極楽

と落首を書いた。

「さかい」は「境」と「酒井」をかけ、「おき」は「隠岐」をかけたものだ。

地獄と極楽の境にいた領民は、忠能の後任である西尾忠成によってまともな生活に戻れたのだ。その西尾忠成の官名が「隠岐守」だった。

やがて家綱将軍が薨去すると、館林藩主・徳川綱吉が五代将軍に就任した。

綱吉将軍は館林藩主時代、酒井忠清松平光長にいじめを受けたことを深く恨んでいた。

そのため、将軍就任と同時に忠清を大老職から罷免した。罷免された忠清は抜け殻のようになり、やがて槍で肺を貫いて自害した。

忠清自害の情報をつかんだ綱吉将軍は早速酒井屋敷に検屍役人を差し向けた。大名の自害は即取り潰し。綱吉将軍は酒井家を取り潰すことで報復を完成させようとした。

しかし、検屍を妨げたのが忠能だった。忠能が玄関先で役人と押し問答をしているうちに忠清の遺体は酒井屋敷から運び出され、寺で火葬された。

綱吉将軍は検屍役人に「墓を暴いて死因を調べて来い」と命じたが、火葬されてからでは自害の証拠はつかめない。

酒井忠清取り潰しに失敗した綱吉将軍は、怒りの矛先を忠能へ向けた。

こうして駿河田中4万石はお取り潰しとなり、忠能は彦根藩お預けとなった。