【2011年4月15日】
堀田正盛。
春日局(お福)の遠戚にあたるこの男は、春日局の遠戚という、ただそれだけで老中職に就任し信濃松本10万石を与えられた。
成り上がりそのものである。
幕府内の春日局の権勢は強大なもので、春日局は自らの死後も一族の繁栄を願い「稲葉グループ」と「堀田グループ」を「繁栄の両輪」として活用しようとした。
「稲葉グループ」とは春日局の夫・稲葉正成の血統を指し、「堀田グループ」とは稲葉正成の前妻が生んだ娘と堀田正吉の間にできた血統を指す。
春日局の思惑通り、両家は「繁栄の両輪」となった。そして両家は「春日局ブランド」として明治維新まで幅を利かせた。
こうした背景から、堀田正盛には日頃から驕った言動が目立った。
熊本の加藤忠広がお取り潰しになった際、忠広は抵抗して江戸で一戦交えるのではないかという噂が江戸の町中に流れた。
正盛は部下とともに武装して江戸屋敷で備えた。何事もなく加藤忠広を改易したあと、正盛は江戸城内で「オレは武装して加藤忠広に備えたんだぞ」と大威張りで吹聴した。
「この馬鹿者!真の忠臣はまず江戸城に馳せ参じて上様の御下知(命令)を承って動くものぞ」
とカミナリを落とした。
この典型的な成り上がり者は肥後熊本藩主の父・細川忠興に「細川家代々の茶道具を見せて欲しい」と依頼した。
忠興は
「この図々しいガキは、いったい何なんだ」
と不愉快になったが、相手が春日局の遠戚であることから拒否するわけにもいかず、「それでは後日、我が屋敷にて」と返答した。
正盛が細川屋敷に行くと、そこには立派な鎧・兜・弓・槍・刀・鉄砲が飾られていたが肝心の茶道具が無い。
正盛がそのことを忠興に言うと忠興は
「はて、我が家で道具と言えば武具。茶道具は武家の道具ではありませぬ」
と涼しい顔で答えた。
不満げな顔で帰って行く正盛の後ろ姿を見ながら忠興はクスクス笑った。
家老の長岡興長(松井興長)が「大殿、堀田殿は春日局の遠戚ですぞ」と心配そうに言うと忠興は
「あんな成り上がり者に、茶道具の良し悪しなどわかるわけがあるまい」
と笑った。長岡興長もつられて笑った。
この典型的な成り上がり者はのちに下総佐倉11万石に転封となり、家光将軍が薨去するまで成り上がりぶりを発揮し続けた。