おい左平次、ありゃあ鰻松ンとこのまおじゃねえか。
しかも里菜サンと一緒だ。
左平次、いつものあのい~い匂いがしてきたぜ。
まおのヤツ、気が利くじゃねえかよ。さ、ウマいうな丼にウマい酒でしあわせな一日だぜ。
お?
まおがうなぎで里菜サンがいつもの剣菱。
で、そのすいーとぽてとは里菜サンの時代の「食後のでざーと」か。
でもよ、そんなの持って来るってこたァ、またろくでも無え話しろってんだろ?
何?
稲葉丹後守様(稲葉正往)だ?
あのな里菜サン、あのお方はな、春日のバアサン(春日局)の御曾孫だ。聞かれたら奉行所でお仕置だ。そんな話出来るワケ…
おいまお、おめえ懐から出したの、それ、くじらじゃねえか?
くじらづけか。
おい左平次、うなぎにくじらのづけだとよ。
オレァ奉行所でいいぜ。
じゃ、話するから聴いてくんな。
左平次、おめえは外見張ってろ。
丹後守様はもとは小田原藩主だ。
ただ、御先代の美濃守様(稲葉正則)が長命でな。なかなか小田原藩主にゃなれなかった。
部屋住みのまんま40になっちまって、美濃守様もこいつァまずいって思いなすってな。そンで御大老の酒井雅楽頭様(酒井忠清)に頼んで部屋住みのまんま京都所司代よ。里菜サン、京都所司代は就任すると「龍顔を拝し、天盃を賜る」んだがな、丹後守様は大名じゃなくて、部屋住みの身で「龍顔を拝し、天盃を賜」ったんだ。こんなのオレたちの時代じゃ丹後守様だけだぜ。
京都所司代在任中に美濃守様がぽっくり逝ったんで、丹後守様は小田原10万石を御相続なさったんだが、所司代在任中の貞享元年に江戸で大事件が発生した。
丹後守様の親戚に稲葉正休ってえのがいたんだがな、こいつが御城(江戸城)で御大老の堀田筑前守様(堀田正俊)をブスリよ。傷は腹から背中まで抜けてたっていうからな、里菜サン、こいつァ「絶対に殺ってやるんだ」って強固な意思だったんだろうぜ。
親戚のやらかした罪でも罰せられるのがオレたちの時代だ。里菜サン、丹後守様は稲葉正休の一件で京都所司代を罷免されちまった。しかも罷免の3ヶ月後には相模小田原から越後高田へ国替えになっちまった。
こンとき丹後守様は綱吉公を恨んだ。恨んだと同時に「理不尽は許せねえ」って思ったんだ。
その「理不尽は許せねえ」ってのを晴らしたのが赤穂浪人の討ち入りだ。
元禄15年の師走の月番老中は丹後守様でな。朝、御城で大目付から赤穂浪人自首の報せを受けた丹後守様は真っ先に米沢藩邸に使者を出した。「大石に追手を出したら、私闘扱いで上杉15万石はお取り潰しだぞ」ってな。里菜サン、丹後守様はどちらかと言えば「義士切腹論」のお方だった。だがな里菜サン、理不尽に小田原から高田に国替えさせられたときのあの理不尽がどうしても許せなかった。だから、丹後守様は「浪人どもをきちんと法で裁いて罰しないと、またあの犬公方(綱吉将軍)がトンチキな理不尽やっちまう」って思って米沢藩には手出しさせなかった。手出しさせたら法で裁けなくなっちまうからな。
また、大老格側用人の柳沢様(柳沢吉保)が登城される前に米沢藩と大目付の両方に処置をした。米沢藩には手出し禁止、大目付には赤穂浪人の大名御預けの手配をお命じなすった。
里菜サン、柳沢様が来る前に処置しねえと、「大老格の権限で赤穂浪人は全員斬首」ってやりかねねえ。それじゃ法を無視した理不尽になっちまう。理不尽が残すのは恨みだけだ。だから丹後守様は「すぴーど」を重視した処置をしたんだ。
そもそも、綱吉公が浅野だけ腹ァ切らせて吉良のジイサンはお咎め無しなんて理不尽やったから赤穂浪人は吉良邸に討ち入ったんだ。里菜サン、丹後守様はこれ以上理不尽重ねちゃいけねえって思ったのよ。
その後は法によって裁かれて赤穂浪人は切腹、吉良家は御家断絶に決まった。
吉宗公が八代将軍におなりなさると、丹後守様は老中格として幕政(国政)に意見なさった。老中格は里菜サンの時代で言えば「非常勤の無任所大臣」だ。ま、アレだな里菜サン。吉宗公は大の「忠臣蔵ふぁん」だからな。
理不尽はいけねえ。
それが丹後守の根っこの部分だった。
享保元年10月9日。
稲葉丹後守正往様没。
享年77。
うな丼にくじらづけ。
いやあ、長いこと生きてりゃいいことの一つや二つはあるモンだな。
で、食ったあとはいつものすいーとぽてとだ。
ありがてえ一日だったぜ。
里菜サン、また。