もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

高田公園(高田城)

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【2012年4月20日】

稲葉丹後守正往。

松平光長改易後の越後高田藩主である。

もとは相模小田原藩主であったが、親戚の稲葉正休大老職・堀田正俊を刺殺したため連座で罪を問われて京都所司代を罷免のうえ越後高田へと国替になった。

「あのトンチキ野郎。何でオレまで」

堀田正俊も稲葉正往も揃って「春日局ファミリー」。なので、はじめは稲葉正往はお咎め無しかと思われた。しかし…

「こんな雪深いところに飛ばしやがって。御大老刺殺もあのトンチキが陰で正休を唆したんだろ」

あのトンチキとは綱吉将軍を指す。

綱吉将軍は若い頃から奇行が目立ったので「人格破綻者」とあだ名されたが、それを面と向かって口にした松平光長は改易された。そして今、正往が高田藩主になっているのだ。

堀田正俊も綱吉将軍の母・桂昌院に倹約を迫ったため疎まれ、この世から消された。

綱吉将軍の関与を疑わせる材料が一つある。

正俊刺殺の翌年、綱吉将軍は桂昌院や大奥の連中たちを連れて花見に出掛けたが、その際

筑前守(正俊のこと)の墓の方角に衝立を置け」

と命じている。

正往はこのことを知っていて「あのトンチキめ」と言っているのだ。

高田藩主でいること15年。

正往は高田の城下町を整備したが思うようにいかず、城下町の中に田園があるというヘンテコな状態になってしまった。

正往は老中職に任命され、下総佐倉へ国替となった。

そして佐倉へ国替となった2年後の元禄15年12月15日早朝、忠臣蔵事件が発生する。

このとき米沢藩では泉岳寺襲撃命令が出ていたが、これを止めるよう正往は使者2名を米沢藩邸に派遣している。

高家の畠山義寧と下総船戸藩主・本多正永で、2名は米沢藩邸で上杉綱憲に対し、

「今、泉岳寺を襲撃すれば赤穂浪人は簡単に討ちとれるが、それは吉良の喧嘩を上杉が引き受けると幕府はみなしまするぞ」

と言った。それは「私闘禁止」の武家諸法度に違反する行為だから、次は幕府が上杉を討つぞという恫喝でもある。

これで上杉綱憲泉岳寺襲撃を諦めた。

のちに正往は赤穂浪人の処分について、綱吉将軍に厳罰を要求した。

「このトンチキ野郎が最初から喧嘩両成敗にしてれば、こんな騒ぎにならなかったんだ」

正往は気持ちの揺れる綱吉将軍に厳罰の意見書を提出。

「トンチキ、今度はしっかりやれよ」

正往の心の声が届いたのか、綱吉将軍は今度は法に則った処分を下した。