【2011年2月24日】
慶安4年4月20日、家光将軍薨去。
慶安4年7月18日、三河刈谷藩主・松平定政、発狂乱心により所領収公。
4月20日の家光将軍薨去のあと、実際に幕政(国政)の中心に座ったのは大老職である若狭小浜藩主・酒井忠勝と井伊直孝の2人だった。そしてこの2人を中心に、松平信綱以下老中職の面々が加わる合議制が取られた。
家光将軍の死後も浪人増加の問題は一向に解決しなかった。
酒井忠勝は浪人について
「浪人など、ゴミ同然。あるだけ迷惑」
と常々公言していた。
浪人が悪いのではなくて浪人を生み出す幕府の制度が悪いのに、だ。
忠勝の「ゴミ発言」は広く知られていた。だから、浪人たちは忠勝を憎んだ。
騒動は7月10日に発生した。
三河刈谷藩主・松平定政がいきなり息子と剃髪したのだ。そして僧衣に二本差しという異形で
「松平能登入道に物給え」
と江戸の町で托鉢を始めたのだ。江戸の町は大騒ぎとなった。
同日、定政は井伊直孝に手紙を送っている。
手紙には「刈谷2万石を幕府に返上するので、浪人たちに分配して欲しい」と書かれていた。これは明らかに幕府の浪人政策を批判したものだ。
手紙は直孝に送られたものだが、文中の宛名には大老職・老中職の連中の名前が並んでいた。
しかし、これを見た松平信綱は
「讃岐守様のお名前がありませぬな」
と、忠勝の名前だけ抜けていることに気付いた。
定政はわざと書かなかった。わざと書かないことで「浪人政策の間違いの責任は酒井讃岐守にある」と言いたかったのだ。
また、頭を剃った7月10日というのは土井利勝の命日である。利勝は幕府を「改易至上主義路線」にした張本人だ。定政はその「改易至上主義路線」に当て付けて7月10日に剃髪したのだ。
おそらく、定政は気の弱い人だったのだろう。だから、こうして遠回しなやり方でしか忠勝を批判出来なかった。
一方、由比正雪は自害の際、遺書でハッキリと忠勝を名指しで批判している。「讃岐守のせいで浪人問題が解決しない」と。
松平定政は名指ししないことで、由比正雪はハッキリ名指しすることで、それぞれ「ゴミ発言」をした忠勝を批判したのだ。
結局、幕府は浪人政策を見直した。50歳以下の末期養子を認めて無嗣収公を無くそうというのである。
忠勝は一連の批判をどう思ったのだろうか?