【2010年5月13日】
鯖江藩。
ここは5万石の譜代大名の藩だった。
藩主は、間部家だ。
藩祖は間部詮房という人で、甲府藩主・徳川綱豊の側用人だった。徳川綱豊はのちの家宣将軍だ。
家宣将軍・家継将軍の二代にわたって側用人を務めた。
もともと、幕政(国政)は譜代大名が大老職なり老中職なりに就任して執るものだった。
それを変えたのが綱吉将軍で、堀田正俊刺殺事件を機に側用人制度を制定した。
側用人制度は老中職では無く、側用人が幕政を執る。当然、譜代大名からは不満が出る。
綱吉将軍の側用人・柳沢吉保は大老格側用人にまで出世した。これでますます譜代大名の不満が高まった。
ただ、二人とも「大老格」「老中格」であって、本職は側用人だ。
綱吉将軍の代から老中職を務め、家継将軍の代に首席老中になった土屋政直は
「何故、我等よりも側用人のほうが偉いのだ?」
と大きな不満を持った。
国務大臣よりも私設秘書のほうが偉いのだ。土屋政直は「側用人、いい加減にしろよ」と思った。
土屋の怒りを決定的にしたのは、まだ幼児だった家継将軍を間部が膝に抱いて評定(閣議)に出ることである。
土屋の怒りは爆発した。
土屋は家継将軍が幼児のため、早く死去することを予想して紀州藩主・徳川吉宗に接近した。
小児医療が全く確立されていない時代である。生まれた子供は5人に2人成長すれば御の字とされた時代だ。
土屋の読んだ通り、家継将軍は風邪をこじらせてそのまま死んだ。
八代将軍に就任した徳川吉宗は土屋との「密約」を守り側用人制度を廃止した。
罷免された間部は上野高崎から越後村上に国替えとなった。この国替えにはさほど懲罰的な意味合いは込められていない。
が、間部が病死し、弟の詮言が跡を継いだ途端、
と越後村上から越前西鯖江へと飛ばされた。
西鯖江。
詮言入封時、人口わずか数百人の漁村。
それはもはや左遷を通り越して嫌がらせだった。
幕末、間部詮勝が家斉将軍から鯖江城築城費用5,000両(2億5千万円)が与えられたが、様々な事情により築城されることは無かった。
鯖江城は幻の城なのだ。
その幻の城の築城予定地が西山公園だった。