【2012年1月6日】
天和元年9月12日。
光政の姪は下野烏山藩主・板倉重矩の嫡男・重良に嫁いだが、重良は精神異常を理由に廃嫡されてしまい、烏山藩は弟の重種が相続した。
板倉重種は家綱将軍の葬儀委員を務め、そのあと綱吉将軍の代に老中職となった。
老中職としての初仕事が上野館林藩主・徳川徳松を将軍世子として江戸城に入れることだった。
綱吉将軍は五代将軍に就任するため、常陸水戸藩主・徳川光圀の支持を得た。これが五代将軍就任の決め手となったのだが、光圀は綱吉支持の条件として
「甲斐府中藩主・徳川綱豊を六代将軍にすること」
を要求した。
初め綱吉将軍はこの要求を飲んだが、綱吉将軍も人の子。やはり館林にいるかわいい我が子・徳松を六代将軍にと思うようになった。そして重種に命じて徳川光圀と交渉させた。
重種は光圀に徳松世子の一件を認めさせたが、これを機に綱吉将軍と光圀の仲は冷え込んだ。
重種は徳松世子一件の功績により1万石加増されて武蔵岩槻藩主となった。
板倉重種には重寛という実子がいたが、家を継いだ経緯から重良の子・重宣を嫡男とし、重寛は分家に養子に出していた。
しかし、岩槻6万石を得たとき
「やはり、かわいい我が子に岩槻藩を相続させたい」
と思うようになり、とうとう重宣を廃嫡して我が子・重寛を分家から呼び戻した。
そしてこれがきっかけで岩槻藩板倉家は重宣派と重寛派に分裂してしまった。
「重種のヤツ、許せん!」
光政は当主・池田綱政を通して幕府に苦情を入れた。
「板倉重種の家中不統一を罰するべきです」
と進言した。
堀田正俊は綱吉将軍就任支持を取り付けるため、「六代目は綱豊」という交換条件で光圀の協力を得たのだ。
それを、板倉重種はひっくり返した。正俊とすれば「この野郎、オレの顔に泥塗りやがって」と思えたことだろう。
正俊に強く迫られた綱吉将軍は重種を老中職から罷免。
板倉家は重種の子・重寛に陸奥福島3万石が与えられ、重宣に上総高滝2万石が与えられて分割された。
上総高滝藩板倉家は、のちに備中庭瀬に国替となって明治を迎えた。