もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

岡山城

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【2012年11月9日】

池田丹波守輝録。

池田新太郎光政の三男だ。

輝録は光政から備中生坂に1万5千石を分知され、独立した大名となった。

この輝録は、ちょっと面白い人生をたどる。

初めは池田姓を名乗らず、

熊沢政倫

と名乗った。

岡山藩池田家は本家の当主のみ松平姓を名乗るが、その他の男子は池田姓を名乗る。一部の大名家では庶子には他姓を名乗らせることもあるが、池田家では池田姓を名乗らせる。

池田輝録が熊沢政倫を名乗ったのは

熊沢蕃山

という者の養子になったからである。

熊沢蕃山。

初め野尻左七郎と名乗り、8歳のときに熊沢姓に改姓した。

寛永11年、丹後宮津藩主・京極高広の紹介で池田光政に仕えることになった。

しかし、池田家での生活は上手くいかず、寛永16年に一度池田家を離れる。

その後、熊沢蕃山は近江国(現在の滋賀県)に行き、そこで陽明学と出会う。

この陽明学との出会いが、熊沢を大きく変えた。

正保2年。

熊沢蕃山は再度池田家に仕える。

ただの再就職とは違い、今度は陽明学を引っさげての再就職である。

池田光政はこれを歓迎した。光政自身が陽明学の信奉者だからだ。

慶安3年になると熊沢は3,000石を与えられた。そして、光政の三男・政倫が熊沢家の養子になった。

池田輝録はこの頃に熊沢から「君主とは」という教育を叩き込まれた。このとき受けた教育が、輝録の名声の基となった。

光政は熊沢を重用したが、これを面白く思わない者が藩の内外にいた。

ひとつは岡山藩重臣たちで、もうひとつは幕府の将軍補佐職・保科正之を中心とする「朱子学グループ」だった。

行動を重視する陽明学と理念を重視する朱子学は相反するものだった。

徳川幕府朱子学をもって正学としようとしたので、当然陽明学は「異学」の眼で見られた。

「君、君足らずとも、臣、臣たれ」

馬鹿馬鹿しいことこのうえない、蓄膿症じみた思想だが、徳川幕府はこれを全国レベルで押し付けようとした。そのため、熊沢は岡山に居づらくなった。

明暦3年、熊沢はとうとう岡山を退去することになった。

養子・政倫は池田家に戻り、

池田輝録

として人生の再スタートを切った。

熊沢の教育が良かったのであろう。

輝録の秀才ぶりは江戸にも聞こえていて、綱吉将軍は輝録を奏者番に任命した。

綱吉将軍は徳川十五代で唯一、外様大名を幕府の役職に登用した将軍だった。