【2012年9月27日】
天正15年。
秀吉が諸将を招いて大坂城で茶会を開いたときのことだ。
参加者の一人、大谷刑部少輔吉継が点てられた茶を飲もうとした瞬間、顔から膿が茶に落ちた。
騒然となる茶会。
しかし、そこへ石田三成が進み出て吉継の顔の膿の入った茶をグイッと飲み干し、
「うまい茶でござった。もう一杯、所望したい」
と言ってのけ、騒然となった茶会をもとに戻した。
大谷吉継は癩病を患っていた。そのため、人前では崩れた顔を見せないために白い頭巾を被っていたのだが、この日の茶会では崩れた顔から膿が落ちてしまった。
茶会が騒然となった時点で吉継は「恥ずかしい、自害したい」と思ったが、石田三成の機転に救われた。
これがきっかけで吉継と三成は親友になった。
秀吉が死ぬと、三成は反徳川の兵を挙げると言い出した。
初め、吉継は反対した。「おまえで勝てる相手ではないからやめろ」とはっきり言った。
しかし三成は「おまえ、太閤殿下の恩を忘れたのか」と言い返す。
そして、三成は
「刑部どの、頼む。親友としてこの三成と一緒に戦ってくれ」
と吉継に頭を下げた。
吉継はもともといえやっサンに付くつもりだった。
吉継といえやっサンは秀吉の「東北仕置」の頃からの付き合いで、良好な関係を保っていた。
吉継は、友情を選んだ。
敗北がわかっていてもなお、眼の前の親友を選んだ。
あの茶会の日、自分の顔の膿の入った茶を飲み干してくれたこの親友を、吉継は見捨てることが出来なかった。
心を決めた吉継は、「逆転勝利」のために三成に対して容赦無い注文をした。
「おまえは人望が無いから、総大将は毛利輝元どのか宇喜多秀家どのを立てろ」
三成は怒らずに聞き入れ、毛利輝元を総大将にした。
吉継自身は領地・越前敦賀を中心に工作活動を開始する。
北陸地方の小大名たちを次々と調略し、加賀の前田利長に対しては偽情報を流して揺さぶりをかけた。このため利長は北陸に釘付けされ関ヶ原へは参戦出来なかった。
そして、運命の日。
慶長5年9月15日、関ヶ原の戦い。
戦いは小早川秀秋と吉川広家の寝返りのため1日で決着。石田三成は敗れた。
吉継は奮戦の末、自害して果てた。
享年42。
契りあれば
六の港に
まてしばし
おくれ先立つ
事にありとも
吉継がせめて5万石ではなくて50万石の大名だったらと思うと、悔やまれてならない。