【2012年9月24日】
飯田屋飴店の基礎を築いた人物である。
彼は何故、飴屋になったのだろう?
享保10年7月28日。
この日、伊藤伊左治をはじめとする松本藩士たちの人生を狂わせる大事件が発生する。
松本藩主・水野忠恒が江戸城中で発狂乱心し、長門府中藩嗣子・毛利師就に斬りつけたのだ。
毛利師就は軽傷だったが、殿中での刃傷は当然処罰の対象である。
吉宗将軍は
「水野の所領7万石を収公。身柄を叔父・水野忠穀にお預けとする。なお、毛利師就軽傷につき、忠恒の切腹は無用」
との裁定を下した。
切腹無用とすることで、「水野版・忠臣蔵事件」になることを未然に防いだのだ。
吉宗将軍は水野忠穀に7千石を与えて家名存続を許したが、何せ7万石が7千石になるのだ。
持高10分の1では到底松本藩士全員の面倒は見きれない。
こうして、伊藤伊左治以下多くの藩士が職を失った。
のち、水野忠穀の血統は駿河沼津5万石まで石高を回復したので一部の藩士は沼津藩に再仕官(再就職)が叶ったが、それはごく一部の藩士であって、結局そのほとんどは武士の身分を捨てて第二の人生を歩まざるを得なかった。
「オレたちには何の罪も無いのに…」
松本藩取り潰しが決まると、禄を失うことが確定している藩士たちはトンチキ藩主・水野忠恒を深く恨んだ。
しかし、忠恒を恨んだところで状況は変わらない。伊左治たち元藩士は明日以降、生きていかなければならないのだ。
伊藤伊左治は武士の身分を捨て、コメを管理する仕事に就いた。
しかし、上手くいかない。
もともとが武士である。武士階級というのは徒食生活者であって、生産者ではない。
管理する仕事は自分自身で生産に携わってはじめて上手くいくものだから、伊左治には向かなかった。
次に伊左治は酒屋を開業する。
こちらは上手くいった。
酒屋が成功すると、伊左治は商売を拡大しようと考える。
伊左治は
「酒も飴も原材料はコメだ。飴屋か。悪くはないな」
と、飴も扱うことを決意する。
これが飯田屋酒店が飯田屋飴店へ脱皮するきっかけだった。
寛政8年。
ついに飯田屋飴店は創業に漕ぎ着ける。
水野忠恒が毛利師就に斬りつけてから70年以上の歳月が流れていた。
飯田屋飴店は現在、名菓・あめせんべいをはじめとする飴菓子で松本市を代表する存在となっている。