【2012年9月19日】
伊木忠澄。
側室が生んだ三男坊。そのため、初め彼は菅 助作と名乗った。土倉家では庶子は菅姓を名乗らせるためだ。
天保4年。
助作は岡山藩筆頭家老・伊木家を相続する。
伊木忠澄の名前はここで登場する。
伊木忠澄は岡山藩断絶の危機を二度防いだ。
一度目は天保13年だった。
この年1月30日、藩主・池田斉敏が急死。池田斉敏は島津斉彬の実弟である。
斉敏には男女ともに子供が生まれなかったため、岡山藩は御家断絶の危機に陥った。
この危機を、忠澄が救った。
忠澄は支藩である備中鴨方藩池田家から娘をもらい受けて斉敏の養女とした。
斉敏の死後、養女とするのだ。怪しまれてはいけないので忠澄は「斉敏は生きている」として事を進めた。
そして、今度は豊前中津藩主・奥平昌高の10男・昌朝を斉敏の養女の婿養子に迎えて結婚させた。
この間、忠澄はいかにも斉敏は生きていると見せかけて養女・養子工作をした。
二人の結婚のめどがついた4月2日、忠澄は斉敏の死を公表。そして5月29日、婿養子・奥平昌高は備前岡山32万石の相続を許されて名前を池田慶政に改めた。
二度目の危機は明治維新の際に発生した。
当時の藩主・池田茂政は水戸徳川家から来た養子藩主だった。そのため、外部からは
「岡山藩は佐幕」
という目で見られた。
岡山藩は安政元年に幕府から房総半島警備を命じられたのがきっかけで、藩論は尊皇倒幕が主流だった。
が、藩主の実家が水戸徳川家だったために薩長のように思い切ることが出来なかった。
忠澄は備前岡山32万石を守るため、これまた支藩の鴨方藩から池田政詮を連れて来て茂政の養子とし、そのまま茂政を隠居させて岡山藩を相続させた。
これが池田章政で、岡山藩は伊木忠澄のおかげで維新の嵐を乗り越えた。
しかし、岡山藩が茂政の在職中煮え切らない態度だったことは確かで、そのため岡山藩は新政府内で要職を得ることが出来なかった。
そこで岡山藩では学問に力を入れ、のちに「岡山秀才」と呼ばれる人材を中央に向けて輩出した。
「流産内閣騒動」の主人公・宇垣一成も、この「岡山秀才」のうちの1人だ。
一方、隠居させられた池田茂政の子・勝吉は明治17年に男爵を与えられ、茂政の血統は名誉を回復した。
二度の危機を救った伊木忠澄。
まこと、名家宰であった。