もずの独り言・はてな版ごった煮

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松本城

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【2010年1月20日】

水野出羽守忠友。

家治将軍の代に勝手掛老中職を務めた。

彼が幼い頃、本家の信濃松本藩主・水野忠恒江戸城内で長門府中藩主・毛利師就に刃傷沙汰に及び、松本藩はお取り潰しとなった。

吉宗将軍は「水野家は由緒ある家だから」ということで御家断絶にはせずに、忠恒の叔父の忠穀に7,000石を与えて家名を存続させた。

もともと松本藩は7万石なので家禄10分の1での再出発となった。

忠穀は旗本のままで死んだ。

跡を継いだ忠友は家治将軍の側衆に取り立てられ、若年寄を経て老中職に就いた。

当時は田沼政権の頃で、本来なら田沼意次自身が首席老中として勝手掛を兼帯すべきなのだが、田沼を良く思わない連中に配慮して首席老中は松平康福に、勝手掛老中は忠友に譲って自身は次席老中に甘んじた。

忠友は勝手掛老中としてまず三河大浜1万3千石、次いで駿河沼津3万石に加増されて大名に復帰した。水野忠恒が刃傷沙汰を起こしてからずいぶんな年月が経っていた。

勝手掛老中としての忠友の功績は無い。

経済政策は田沼意次自らが指揮を執ったため、忠友は「お飾り」の勝手掛だった。

忠友の時代というか、「田沼時代」は賄賂が横行したユルい時代だった。それは家重将軍の代まで遡る。

家重将軍の側用人を務めた大岡忠光は賄賂を拒まず受けたため

「官職周旋屋」

と陰口をたたかれた。

忠光の死後、首席老中として幕政を執った松平武元も「官職周旋屋」を引き継いだ。そして武元のやり方を忠実に受け継いだのが田沼意次だった。

家治将軍の26年間は実にユル~い時代だったのだ。

このユルユルを締め直したのが松平定信で、定信は将軍補佐職兼首席老中に任ぜられると真っ先に田沼を罷免した。忠友もこのとき同時に罷免されている。

田沼は実質上の幕政指導者だったため5万7千石を1万石まで削られた。が、忠友は老中職の罷免にとどめられた。

忠友は罷免された10年後、再び老中職に返り咲く。そして彼の養子の忠成は首席老中となる。

水野忠成もまた、賄賂でユルユルの首席老中として知られる。

ま、刃傷沙汰起こすくらいなら賄賂でユルユルのほうがましかな。