もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

小倉城

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【2012年5月16日】

元和2年6月28日。

豊前小倉藩主・細川忠興は国許の世子・忠利に

「金地院、御前いよいよ遠くなり申し候」

と手紙を書いている。

「金地院」とは金地院崇伝という僧侶のことを指す。

崇伝は室町幕府の三管四職のうち四職にあたる一色家の出身で、出家して崇伝と名乗った。

江戸幕府では「伝長老」と呼ばれ、いえやっサンの政策ブレーンの一人だった。

この「伝長老」こそが士農工商という身分固定を思いつき、幕府に実行させたのだ。

人を身分で固定して風通しの悪い、停滞した社会を作り上げた張本人がこの「伝長老」なのである。

忠興は忠利宛ての手紙で「崇伝は秀忠将軍に遠ざけられたぞ」と伝えている。

事実、秀忠将軍はこの「伝長老」を遠ざけて土井利勝を重用した。

これは、いえやっサンが臨終の際に

「おまえに幕府と大炊頭(利勝)を相続させる」

と秀忠将軍に言い残したことによる。

徐々に土井利勝の天下になろうとしている元和2年7月6日、今度はその「伝長老」が細川忠興宛てに

「今は誰も彼もが大炊頭どのを頼みにしている。あなたもこれからは私ではなくて大炊頭どのと昵懇になさいませ」

とアドバイスの手紙を書いた。

「伝長老」からアドバイスを得られるくらい忠興は外交上手だった。

この「伝長老」のアドバイスの的確さは、元和5年にはっきりと形になって現れる。

元和5年6月、安芸広島藩主・福島正則広島城無断改修を理由に取り潰された。

最初、正則は抵抗した。

広島城改修の届け出は上野介どの(本多正純)に提出したわ!」

と。

確かに、正則は改修工事の届け出を本多正純に提出している。これは元和4年のことだ。

しかし、正則は江戸城内の事情に疎かった。元和4年の段階で正純はすでに力を失っていた。そのため、正純は広島城改修届けのことを幕閣会議の場で言い出せなかったのだ。決して正純が故意に届け出を握り潰したわけでは無い。

もし、このような内情を正則が知っていたら、もう少し違う対応が出来たかも知れない。

細川家の外交上手と比べると、正則はやはり一格劣る。外交上手だからこそ得られる情報。情報の有無が明暗を分けたのだ。

若かりし頃、織田信長に鍛えられた忠興と、所詮は桶屋の息子の正則。

片や、肥後熊本54万石へ栄転。片や、川中島で空しい晩年。

細川家の外交上手は、見事自家保存に成功した。