【2011年2月25日】
肥後熊本藩主・細川忠利と父・忠興。
この親子は「文通」で意思の疎通を図った。
忠興が忠利へ宛てた手紙は百通を超える。この百通を超える手紙一つ一つに、忠利は全て返事を書いた。
忠興は父親として忠利に対して二つの不安を抱いていた。
一つは、忠利が自分に対して叛意を抱かないかということ。もう一つは、忠利が生まれつきからだが弱かったことだ。
前者のほうは武田信虎や斉藤道三を見てもらえばわかる。
武田信虎は息子・晴信(信玄入道)によって追放され、以後、流浪の人生を送った。斉藤道三にいたっては息子・義龍に殺害された。
下剋上の時代に生まれた忠興は、息子に対しても決して油断しなかった。忠利から来る返事から忠利の気持ちや考えを鋭く読み取っていたのだ。
後者のほうは、徳川幕府の取り潰し政策への対策である。
「病弱」を理由に取り潰すなんてことは徳川幕府なら当たり前のようにやるであろう。それを見越して忠興は
「おまえはからだが弱いから、食べ物に気を遣え」
「水泳がからだには良いらしいので、これからはおまえも暇を見て泳ぎなさい」
と忠利に書き送っている。忠利は父親の言う通り、からしれんこんを食べて暇なときは水泳をした。
れんこんには増血作用があり、水泳は乗馬よりも運動量が豊富だった。
忠利はこの父親の筆まめに生涯付き合わされた。忠利は忠興に先立って死去したため、この文通は生涯続いた。
しかし、忠興は忠利への監視や健康のためだけに手紙を書いていたのではない。時折、「人間・細川忠興」として筆を取ることがあった。
ある日、忠興が伊達政宗の宴会に招かれた。そこには手の込んだ料理が並べられていて、さすがの文化人大名・細川忠興も「まいった!」と思った。
「食も文化」
そう思っていた忠興は政宗に負けた気がした。その腹いせに忠利への手紙で
「あいつ(政宗のこと)、美食が祟って最近便秘で悩んでるらしいぞ」
と書いている。大人げないのだが、何だか笑える。
「父と子の手紙」
長男を追放し次男を自害させた父親にとって、三男とはこころを通わせたかったから書いていたのかも知れない。