【2010年11月30日】
細川忠興が細川家生き残りのために重要視したのが情報だった。
これは織田信長を真似たものだと言っていい。忠興は信長を尊敬していたので信長の長所を真似たのだ。
信長は桶狭間の戦いの戦後の論功行賞で今川義元の首を挙げた毛利小平太よりも、今川義元の居場所を報告した梁田政綱に大きな恩賞を与えた。
信長は
「もし、梁田から義元の居場所の情報が得られなければ、小平太も義元の首は取れなかったはずだ」
と考えたのだ。
桶狭間は行き当たりばったりの奇襲では無い。得た情報を元に計画的に奇襲をかけたのだ。
信長が情報を重視していたことが、このことからもわかる。
忠興もまた、信長を真似て情報を重視した。
いえやっサンの死後、幕府内の権力者が誰になるか?忠興は情報収集に努めた。
その中で忠興は金地院崇伝という幕府の顧問僧から
「権現様死後、本多上野介(正純)の影響力は薄れ、代わって土井大炊頭(利勝)が台頭した」
という情報を得た。
忠興は後継者である細川忠利に
「今後は土井大炊頭に接近するように」
と指示を出している。
忠興に情報提供した金地院崇伝という僧侶は、元は室町幕府の三管四職のうちの四職の一つ・一色家に生まれた。しかし、家の都合で幼児の段階で仏門に入れられた。
のちに徳川幕府の顧問僧となり、方広寺鐘銘事件の弾劾や「士農工商」制度の定着等に手を染めた。
人を身分で固定するという悪魔じみた仕事をしたのが、「伝長老」とあだ名されるこの僧侶である。
金地院崇伝という確かな「情報源」を得ることが出来たのは忠興の交際力である。
忠興の父・藤孝(幽斎)も交際の幅が広い文化人大名であったが、忠興もまた父に劣らぬ交際力を持っていた。
細川家は崇伝に限らず「情報源」を多く持つことで秀忠・家光二代の「大改易時代」を無事乗り切った。乗り切っただけでなく、豊前小倉39万石から肥後熊本54万石への加増まで勝ち取った。
いつまでも本多正純頼みだったため情報過疎に陥り、そのまま取り潰された福島正則とはえらい違いだ。
情報を得る。
得た情報を生かす。
信長にせよ忠興にせよ、現代人に多くの「良い手本」を遺してくれている。