【2012年4月25日】
後藤又兵衛基次。
もとは筑前福岡の黒田長政に仕えていたが、慶長11年、黒田家を退去した。
黒田家を退去した理由は黒田家と不仲だった豊前小倉の細川家との交際だった。
又兵衛は有名な武将だったのでいろんな大名家と交際があったが、又兵衛は主家と不仲の細川家と交際があった。
藩主・黒田長政にこのことを追及され、又兵衛は自分から黒田家を退去した。
又兵衛は福岡を出て故郷である播磨に入った。播磨に入った又兵衛は1~2年程度住所不定状態で潜伏したが、播磨姫路藩主・池田輝政が又兵衛潜伏を知ると牢人分として召し抱えた。
又兵衛召し抱えを知った黒田長政は幕府に訴え出た。
幕府ではいえやっサンの側近・村越直吉と秀忠将軍の側近・鵜殿長秀の二人を姫路に派遣して又兵衛の福岡送還を説いたが、池田輝政は
「断る。オレにも又兵衛に対して武士の義理がある」
と返答した。
しかし、黒田家は引き下がらずに幕府へ訴え続ける。
慶長16年、いえやっサンは再び村越直吉を姫路に派遣して池田輝政に又兵衛召し放ちの説得をした。
輝政は妻・督姫の顔を立てて今度は了承した。
が、それは「池田家召し放ち」を了承したのであって、播磨から追放して筑前に送り帰すことを了承したのでは無い。
輝政は又兵衛を播磨国内に匿い続け、生活の面倒を見続けた。
しかし、又兵衛に転機が訪れる。
慶長18年1月25日。
嫡子・利隆に池田家相続が認められる。
幕府は利隆の池田家相続を認める一方で、故・輝政が新規に召し抱えた家臣の名簿を調査した。
幕府の調査では後藤又兵衛の名前は出て来ない。しかし、「又兵衛がまだ播磨国内にいるようだ」ということは幕府も黒田家も薄々感付いていた。
黒田長政は池田利隆に対し、何故このようなことになったのかを丁寧に説明した。
説明を受けた利隆は「御事情はわかりました」と又兵衛の播磨追放を約束した。
しかし、これまた父・輝政同様に「播磨からの追放」は約束したが、「福岡へ送還する」とは約束していないのだ。
こうして播磨国を追放された又兵衛は一路大坂へ向かった。
のちにいえやっサンは懇意の僧侶を介して
「播磨一国与えるから、徳川方に付かぬか」
と勧誘した。
播磨一国は54万石。しかし、又兵衛はこれを断っている。
そして慶長20年5月6日、後藤又兵衛基次戦死。
享年55。