もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/桑山重晴

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おい敦子、おめえまた人ン家の前で空っぽの鍋持って。それにおめえ、何ヘラヘラ笑ってやがるんだ?

ん?向こう見て見ろって?

ああ、またあいつが長屋の前でヘンテコな躍りやってやがるのか。

おい左平次、敦子のヤツがまたおでんくれろって鍋持って来たから、おまえちょっとおでんこさえてやってくれ。

ああ里菜サン、待たせて済まねえ。

あのおでんせがむガキはいつものヤツだから里菜サンも知ってるだろうが、この長屋にもヘンテコなのが住んでるんだよ。

あれァな、れなって言ってな、下総佐原(いまの千葉県佐原)のしょうゆ屋の娘だ。しょうゆ屋の娘のくせにああやってヘンテコな躍りを躍りやがるんだ。あの躍りを水戸のジイサンが気に入ってな。で、「江戸で預かる」って長屋に住まわした。酔狂な副将軍だぜ。

まあでもあのヘンテコな躍りのお嬢ちゃんの面倒(警護)をやるおかげで、れなの実家からしょうゆをタダで分けてもらえるんだ。ありがてえ話だ。

で、今日はどこのハラキリお大名の話をすりゃあいいんだい里菜サン?

何?

治部卿法印(桑山重晴)様だ?

里菜サン、あんなお方の話なんざ里菜サンくらいの歳のお嬢さんは誰も聴きたがんねえぜ?

まあいいや。いつものすいーとぽてと持って来てくれてるしな。

治部卿法印様は大永4年に生まれた。こんなの、まだ足利の時代の頃だ。オレたちお江戸の者からすりゃあ遠い遠い昔ばなしだ。

治部卿法印ってのは出家したあとの名前で、もとは桑山修理大夫重晴様ってえ名前だった。

重晴様はもともと丹羽五郎左衛門尉(丹羽長秀)様の家来だったんだがな、太閤が重晴様のいくさぶりを見て「欲しい欲しい病」を発症させた。で、太閤が丹羽様に頭ァ下げて重晴様を木下家に譲ってもらったってえワケだ。それが天正2年の話だ。重晴様はこンとき50歳だ里菜サン。「人生50年」の時代に50歳で第二の人生歩むんだから大したモンだぜ。

そのあと太閤の中国攻めに従って但馬竹田1万石を与えられた。里菜サン、重晴様は57歳で大名になったんだ。人間どこでどう運が開けるかわかったモンじゃねえな。さらに3年後にゃあ賤ヶ岳の戦いで功を挙げて1万石加増、そのまた2年後の天正13年に紀州攻めで功を挙げてついに3万石の紀伊和歌山城代にまで出世した。和歌山は大和大納言(豊臣秀長)様の領地でな。大和大納言様も重晴様を信用して和歌山城代に任じたのよ。こンとき重晴様は62歳。すげえジイサンだ。『三国志』に黄忠ってえジイサンが出てくるけど、重晴様は黄忠将軍に負けてねえぜ。

そのあと大和大納言様が薨去されて、後継ぎもおかしな死に方したもんだから大和大納言家は御家断絶になってな、そンで太閤が重晴様を豊臣の直臣に呼び戻したのよ。こンとき太閤が重晴様に与えたのが和泉谷川4万石。これが文禄4年だから重晴様は72歳だ。72歳だぜ里菜サン。里菜サンの時代の言葉で言やあ「すーぱーおじいちゃん」だな。ついでに言うと和泉谷川4万石をもらった丁度5年後に関ヶ原だ。翌年(慶長元年)、重晴様は出家した。治部卿法印ってえ名前はここで初めて出てくる。

関ヶ原では息子たちが徳川方として参戦して、治部卿法印様亡きあとは和泉谷川から国替えになって大和御所藩主になった。

太閤の家臣になって32年。

治部卿法印様は慶長11年10月1日に亡くなられた。享年83。

治部卿法印様の「大名でびゅー」の地の但馬竹田城は法印様の和歌山国替えのあと赤松左兵衛佐(斎村政広)ってえのに与えられたが、こいつは関ヶ原で石田に付いたんでハラキリだ。こいつが腹斬ったあと権現様が竹田城を破却しなすったから、里菜サンの時代に本物の竹田城は残ってねえぜ。だからオレたちの時代に竹田城はもう無かったんだ。

「老いてますます盛ん」は『三国志』の黄忠将軍の活躍から生まれた言葉だが、治部卿法印様も小さな石高ながら「老いてますます盛ん」だったぜ。

じゃ、オレもすいーとぽてと食って長生きするかな。

里菜サン、また。