もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

なめくじ長屋の里菜日記/成瀬吉正-17歳でスパイ人生-

おい左平治、今日はアリサが油揚げ持ってこっち来るぜ。

後ろにひっ付いてるのは里菜サンと小石川(水戸藩江戸屋敷)ンとこの里紗だな。

でも何で里菜サンも里紗もあんなにきゅうり持ってやがんだ?

まあいいや。左平治、あの三人に雑煮食わせてやれや。

何?「オイナリサン、オイナリサン」だ?

ったく、「アブラゲ」の次は「オイナリサン」かよ。使えねえ日本語ばっかし覚えやがって。このお姫さんは水戸屋敷でいったい何教わってんだか。

で、「アブラゲ」と「オイナリサン」以外はぷろいせんの言葉だからさっぱりわかんねえし。

なあ里菜サン、これじゃアリサが何言いてえのかわかんねえよ。ちょっと通訳してくれろ。

へ?

左平治のおいなりさん食いてえって?

ありゃあ確かにさっぱりしててうめえんだが、でも何でまたあのおいなりさんを…

ああそうか、里紗、おめえだろ?おめえが水戸のジイサンにって持たせたおいなりさんつまみ食いしたんだろ?ったく、しょうがねえヤツだ。

おい左平治、食材タダだから、あのおいなりさんも一緒につくってやんな。

里菜サン、きゅうりと一緒に剣菱とすいーとぽてとかい。

今日はどこのハラキリトンチキの話すりゃあいいんだい?

成瀬内蔵助(成瀬吉正)様?

オレァいっつも思うんだが、里菜サンは若けえお嬢さんがどうでもいいって思う話ばっかし聴きたがるんだな。

ああいいぜ。

あのお方の話なら奉行所捕まんねえし。

おい里紗、おめえもそこ座って一緒に聴いてけ。

成瀬内蔵助様は成瀬吉右衛門様(成瀬正一)の次男坊でな。兄貴は尾張の付家老の成瀬隼人正様(成瀬正成)だ。

天正4年に生まれてな。

どういうワケかは知らねえが、6歳のときに権現様の侍女に引き取られてそこで10年ばかし暮らした。

が、文禄元年、内蔵助様は「オレァこんな家、嫌だ」って徳川から出奔しちまうんだ。このとき内蔵助様17歳。17歳で徳川を出てよそで働こうってな。

内蔵助様は浅野左京大夫様(浅野幸長)のとこに転がり込んだ。浅野家は甲斐府中22万石。出奔浪人一人召し抱えるくらいどうってこと無え。

内蔵助様が何で浅野を選んだか?

これが大事なんだがな里菜サン。甲斐国(いまの山梨県)は本能寺の変のあと、権現様がどさくさ紛れに斬り取ったんだ。で、甲斐国奉行に内蔵助様の親父の吉右衛門様を任じた。内蔵助様は親父から甲斐国のことはいろいろ聞いてるモンだから「甲斐がいいや」ってな。

でもよ里菜サン、これも一緒に聴いて欲しいんだがな、浅野家の甲斐入封の少し前くらいから、左京大夫様の親父(浅野長政)と太閤の間がギクシャクしててな。それは権現様も知っていなすった。だから里菜サン、内蔵助様は浅野を徳川方にするために調略に入ったんじゃねえのかなって。

ま、いずれにせよ、内蔵助様は17歳で「すぱい人生」を歩むことになった。浅野の中にいて情報をあれこれ権現様に流す。それから、権現様お指図通り浅野の中で動く。

内蔵助様が浅野の中でどう動いたか詳しいことはわからねえが、浅野が太閤の薨去後に迷わず徳川に付いてるってこたァそうなるように仕向けたんだろうぜ。内蔵助様はこの頃から吉正って名乗ってるんだが、その「吉」の字は長政様の初めの名前の「長吉」から取ったのよ。それだけ内蔵助様は浅野の中で信用を得てたってこった。

が、こンだけ信用されてんのに、内蔵助様は浅野を飛び出しちまった。そンでその足で筑前名島の金吾中納言様(小早川秀秋) のとこに再仕官(再就職)よ。

里菜サン、この再仕官だって怪しいトコだらけだよな?

偏諱もらうくらい気に入られてた浅野を急に飛び出して小早川に行くんだからよ。小早川に行ったのも権現様のお指図だろう。「金吾のヤツ、太閤と上手くいってねえぞ。小早川行って調略して来い」ってな。

内蔵助様が小早川に行った頃、小早川家は筑前名島から越前に国替えの沙汰が出ててな。小早川の連中はみんな太閤を恨んだ。金吾中納言様は困って権現様にご相談よ。

権現様は「私が太閤に執り成しますから。まずは身分の低い、どうでもいい者から越前にお遣わしください。そうして時間稼ぎをしていただいている間に私が太閤に国替え撤回を執り成します」っておっしゃられた。金吾中納言様は権現様に言われた通りにして時間稼ぎしてるうちに太閤が薨去しなすった。

ここで里菜サン、内蔵助様の出番だ。太閤薨去後、国替えを後ろから糸引いてた石田治部(石田三成)に対する恨みで小早川の中はいっぱいだった。里菜サン、権現様は関ヶ原を見据えて小早川に調略かけたのよ。小早川の窓口が稲葉正成様、徳川の窓口が内蔵助様だ。

関ヶ原では小早川軍が寝返って権現様の大勝利。金吾中納言様は筑前名島35万石から備前岡山57万石に、浅野左京大夫様は甲斐府中22万石から紀伊和歌山37万石にご加増された。

浅野で「すぱい」、小早川で「すぱい」。里菜サン、内蔵助様は「すぱい人生」から足洗いてえって関ヶ原のあと小早川から出て行った。

が、「すぱい人生」は終わらなかった。こンだァ「加賀に行け」って権現様に言われてな。加賀行って前田の家臣になった。前田の殿様は利長様だったが、内蔵助様は弟の利常様に仕えた。

大坂冬の陣では真田丸攻撃中に土手っ腹に砲弾くらってな。腹のへっこんだヨロイが里菜サンの時代にも残ってるぜ。夏の陣でも大野治房軍を散々に打ち破って戦功を挙げたんだ。

夏の陣のあと、内蔵助様は利常様から1万1千石与えられた。大名とおんなじ石高だ。

寛永21年。

成瀬内蔵助吉正、没。

享年69。

遺領1万1千石は嫡男の當胤様に8千石、次男の吉安様に3千石に分けて相続された。これはな里菜サン、当時加賀は万石以上の家臣がゴロゴロいてな、そいつらが「ぐるーぷ」つくって権力争いしてたんだ。内蔵助様は 「万石のままだと成瀬も権力争いに巻き込まれる」って思っての配慮だ。成瀬家は以後、8千石の重臣の家柄として維新まで続いたのよ。

お、出来た出来た。

左平治のおいなりさん、中身はきゅうりの線切りだ。

こいつは酢飯のおいなりさんよりさっぱりしててな。酒にも麦茶にもどっちにも合うのよ。

ああもちろん、剣菱にだって合うんだぜ。

うめえ剣菱だった。

里菜サン、また。