もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

そば屋えりよし廃絶録/上野館林藩・徳川徳松


おい左平治、狐狸庵の出前が来たから、勘定払っといてくれや。



さて、おめえは新顔の出前持ちで、名前がえりよしってえのか。
狐狸庵(こりあん)て言やあ赤坂の紀州藩邸の近くのそば屋だな。何でまたおめえが水戸のジイサンの手紙と5両持ってるんだよ?
何?
水戸のジイサンの手紙におめえの身の上が書いてあるって?
どれどれ…

この者、大坂城代へ献上の鯨肉を盗み食いして上方にいられなくなって候。
えりよし儀、まことの名はえりこと申し候ども、大坂城代から手配書が出ている故、名をばえりよしと変えさせて赤坂狐狸庵にて預り候。

ったく、あのジイサンはこういうヤツ好きだからな。
おいえりよし、鯨ウマかったのかよ?
あん?
舌がトロけただって?
こいつァ大した娘っ子だ。水戸のジイサンが気に入るだけあるぜ。
で、今日は何話せって言うんだ。
ん?
手紙見てくれろだ?
館林藩主・徳川徳松廃絶の事…
おいえりよし、こいつァ尋常じゃ無えから念のためで聴くが、本当に水戸のジイサンの手紙なんだろうな?
間違え無え、か。
えりよし、こいつァ話すと打ち首になるくらいマズい話なんだ。聴くおめえだって打ち首だぞ。それでも水戸のジイサンが話せって言うんならそうするが…
えりよし、おめえ、眼ェキラキラさせてるけど、こいつはそんな楽しい話じゃ無えんだぞ。
じゃ、聴いてってくんな。



徳松坊っちゃんは綱吉公の嫡男だ。
こンときの綱吉公は上野館林35万石の大名だった。
綱吉公は先代の家綱公に子が無くて急養子(末期養子)で五代将軍におなりなすった。
えりよし、家綱公が病に倒れてから、五代将軍の候補者は三人いた。一人は館林の綱吉公、一人は甲府の徳川綱豊様(のちの家宣将軍)、一人は有栖川宮家の幸仁親王殿下だ。
綱吉公は家綱公の御実弟、綱豊様は家綱公の御実弟徳川綱重様の息子だから家綱公の甥っ子だ。
で、幸仁殿下だなえりよし。
幸仁殿下の有栖川宮家初代の好仁殿下のカミさんが越前福井の松平忠直様の娘の亀姫様だ。この御縁を盾に御大老の酒井雅楽頭(酒井忠清)が「将軍家の直系が絶えるのであれば、京から有栖川宮様を宮将軍に迎えるべし」って言い出しやがった。
雅楽頭のヤツは強大な権勢だったからな。このまんまだと家綱公の血縁がいるにもかかわらず五代将軍は宮将軍になっちまう。そンで御老中の堀田筑前守様(堀田正俊)が水戸の徳川光圀公にご相談よ。水戸様は「甲府が兄筋、館林が弟筋」っておっしゃられてな。ただまあ、まだ綱豊様が若かったから、筑前守様は「年齢のことがありますので、甲府様ではなくて、館林様を」って言いなすった。
水戸様は「わかった。じゃあ、館林様を五代様で支持するが、六代様は綱豊様だぞ」って条件付けて綱吉公の五代将軍就任に手ェ貸した。
綱吉公はこういういきさつで館林藩主から五代様になったんだがな、息子の徳松坊っちゃんを御城(江戸城)の西之丸に入れちまった。これじゃ「六代将軍は徳松」って公言したのとおんなじだぜ。
綱吉公は「徳松はまだ3歳だから館林に独りで置いておくとかわいそうだから」って言い訳したが、水戸様がそれじゃ納得しねえ。「てめえは約束破るのか」って腹ァ立てた。
館林藩は藩主江戸詰の代官支配ってことになった。水戸様の手前、綱吉公はあくまで館林藩主は徳松様ってことにしたのよ。
天和3年の閏5月28日だったな。
徳松坊っちゃんは上野館林藩主・徳川徳松として5歳でポックリだ。
水戸様が裏で手ェ回したかも知れねえな。
あの御城じゃ時々よくわかんねえ死に方するお方がいるからな。
もしかしたら、徳松坊っちゃんは館林にいりゃあ死なねえで済んだかも知れねえ。
上野館林藩は藩主夭折で断絶。
しばらく館林藩は藩主不在だったんだがな、宝永4年に松平右近将監様(松平清武)が入封して藩を復活させた。右近将監様は家宣公の御実弟だ。
5つの坊やがよくわかんねえ死に方するのがお武家様の世界なんだ。



うめえざるそばだった。
えりよしンとこのはつゆが辛口だから酒に合うんだ。
えりよし、またな。