【2009年4月8日】
酒井雅楽頭忠清。
「下馬将軍」とあだ名された彼は上野厩橋15万石の藩主だった。
「厩橋」が「前橋」になるのは、忠清よりももう少し後の話だ。
家綱将軍に子供がいなかったことから、忠清は皇族から宮将軍を迎えようとした。
宮将軍とは別名親王将軍。
鎌倉幕府が源氏将軍と九条家からの血筋が絶えたときに京都から呼んで来た例のアレだ。そして呼んで来た「飾り物」の下で政権を握っていたのが執権・北条家だった。
忠清はこれを真似ようとした。
有栖川宮家から幸仁親王を将軍として招き、自らは執権として引き続き権力を握ろう、と。
忠清が幸仁親王を選んだ理由は3つある。
1)忠清自身が幸仁親王と面識があること。
幸仁親王は何回か江戸に来たことがあるのだが、このとき忠清は幸仁親王と会っている。
2)忠清の宮将軍構想は執権-連署による政治運営で、連署には幸仁親王の叔父にあたる越後高田藩主・松平光長を就けようとしていた。
3)忠清が綱吉嫌いだったこと。
館林藩主・徳川綱吉の母親・おたまが八百屋の娘だったことから、忠清はいつも綱吉を「八百屋の子」蔑んで見ていた。
以上3つのうち、特に1と2の理由から数ある親王のうち幸仁親王を選んだ。
家綱将軍が危篤となり、いよいよ忠清の宮将軍擁立が実現しかけたところに待ったをかけた男がいた。
老中職・堀田正俊だ。
正俊はいつも「館林様(綱吉)がいるのに、どうして御大老は有栖川宮様を推すのだ?おかしいではないか」と思っていた。
また、水戸藩主・徳川光圀も「甲府には綱豊どの(のちの家宣)、尾張・紀伊にも人がいるのに何故宮将軍なのじゃ」と宮将軍擁立には反対していた。
正俊は綱吉を、光圀は綱豊を推していたが、「宮将軍反対」という点では一致していた。
そこで正俊は光圀に相談を持ちかけた。
「五代様には館林様を、六代様には甲州様を。これでいかがでございましょう?」
光圀は
「それでよい」
と言った。
この「それでよい」の一言には「水戸が後ろ盾。思いっきりやれ」という意味が含まれる。
正俊は江戸城に登城し、危篤の家綱将軍に面会した。
正俊は「あ~う~」しか言えない危篤状態の中年男性の唇に耳を近づけて一芝居打った。
「皆の者、上様は後継ぎに館林様を御指名じゃ!」
と大声で言った。
そしてそれを奉書(命令書)に書き、正俊が加判して館林藩邸に向かった。
本来、奉書は老中職全員の加判が必要なのだが(だから老中職のことを奉書加判と呼ぶ)、緊急の場合は「一人加判」が認められていた。
正俊はこの制度を使って綱吉将軍就任を実現させた。
正俊は「一人加判」の奉書を握りしめて館林藩邸に向かった。時刻はもう夜中だった。
徳川綱吉は夜中のことなのでびっくりしたが、すぐに身支度をして江戸城に入った。
そして五代将軍となった。
「しまった!」
忠清の叫び声は、屋敷中に虚しく響いた。
忠清は正俊が新任の老中であることに完全に油断した。これは油断した結果だった。
綱吉将軍に大老職を罷免された忠清は気が抜けてしまい、以後は江戸大塚の屋敷でぼけーっとすることが多くなった。
そして翌年この世を去った。