左平治、来たぜ。
「かりぃ」の出前持ちがよ。
ん!?
おい左平治、あいつ小石川(水戸屋敷)のまちこじゃねえか。何でまた仕事放っぽらかしてれなりんにひっ付いて歩いてるんだ?
まあいいや。おい左平治、白まんまたんまり炊いとけよ。
おうれなりん、今日の「かりぃ」はちょいと変わってるな。
この「かりぃ」の上に散らしてある緑色のは何でえ?
何!?
あおとう(青唐辛子)だ?
ゆかサンが「酒飲みは辛いの好きだから」って?
でもよれなりん、こんなあおとうまみれの「かりぃ」、ホントにうめえのかよ?
ああ、いつもの手紙と5両だな。
って、かおりさん、いつの間に!?
あ、いや、お出でになられるんでしたら警護付けねえと。
「今日はお忍びです。警護は不要です」
ん?
おいれなりん、この手紙、水戸のジイサンの字じゃ無えな。こいつは讃岐中将様(松平頼常)の字だ。しかも銭だって5両じゃなくて8両、いつもより3両多いぜ。
何何…
井伊兵部少輔(井伊直継)一件、かおりとれなりんに話してくれ…
かおりさん、申し訳無えが、井伊兵部少輔様の話は出来ねえな。水戸のジイサンからの許しがありゃあ別なんだが、讃岐中将様じゃダメだ。こっちも打ち首は御免なんでね。かおりさん、8両は返しますんで、また別の日にお越しください。
あん?
まちこ、おめえ、何持ってきたんだ?
そいつァ鯨の大和煮と、そっちが水戸のジイサンの手紙か。
どれどれ…
奉行所には話をしてある。頼常の顔を立てて孫娘(かおり)に兵部少輔一件、聴かせてやってくれ。まちこに持たせた鯨はほんの気持ちの品…
何でえまちこ、先にそっちの手紙見せなきゃダメだろうがよ。
まあでもあんな話、かおりさんが聴いてもれなりんが聴いてもつまんねえだろうけど。
ま、8両もらっちまったからな。
じゃ、かおりさんもれなりんも聴いてってくんな。
兵部少輔様は佐和山侍従様(井伊直政)の長男だ。佐和山侍従様亡きあとの近江佐和山(のち彦根)35万石の藩主なんだがな、れなりん、このお方は彦根藩井伊家では二代目として数えねえんだ。井伊家の殿様は慶長7年から慶長19年までポッカリ空白ってことよ。
何で?って。
そいつァなれなりん、兵部少輔様は彦根藩井伊家にとって不都合なお方だからよ。
兵部少輔様は表向き「病弱」ってえことで彦根から上野安中(いまの群馬県安中)3万石に分家させられたんだがな、兵部少輔様の享年は73だ。「人生50年」って言われてたオレたちの時代に73歳まで生きた病弱なんざ居やしねえや。
れなりん、兵部少輔様はな、越前中納言様(結城秀康)と仲良しだった。こいつがマズかった。
越前様は羽柴(のちの豊臣)→結城と養子の渡り鳥やって徳川に戻って来た。しかも齢は秀忠公より上だ。権現様としても秀忠公としてもやりづれえお方だわな。さらに、越前様のほうが秀忠公より人気があった。まだ泰平の世の中になる前だ。秀忠公よりも荒々しくて武将らしい越前様に人気が集まったってえことよ。
将軍よりも人気者の次男坊。権現様にとっちゃ厄介な話でな。その厄介なお方と兵部少輔様は仲良しだった。
れなりん、幕府は近江(いまの滋賀県)を京坂に睨みを効かす重要な土地に位置づけてた。その近江佐和山に越前様と仲良しが藩主だと困るんだよ。越前様は豊臣贔屓だからな。もともと越前様は実父である権現様から好かれてなかったからな。
オレたちの時代と明治よりあとの決定的な違いはな、オレたちの時代は双子を人間扱いしねえ時代だった。「呪われてる。縁起でも無え」ってな。だから双子生んだ母親も「畜生腹」って言われて蔑まれた。オレたちの時代の医学の常識じゃ人間の女が一度の妊娠で生むのは1人ってのが普通だったからな。
もう気付いたろれなりん、越前様は双子で生まれたのよ。ぞンで権現様も越前様が7歳になるまで会おうとしなかった。ひでえ話だが、オレたちの時代はこれがまともだった。双子で生まれた子だから愛情がわかねえ。だから長久手の戦いのあと、越前様はさっさと羽柴に養子に出された。そンで越前様は豊臣贔屓になった。太閤も大坂の連中も、みんな越前様を本当の家族みてえに大事にしたからな。
そんな豊臣贔屓と兵部少輔様は仲良しだった。
幕府としてもそれじゃ困るし、井伊家でも「そいつァマズい」って声が出始めた。
そこで井伊家家老の木俣土佐守様(木俣守勝)の出番だ。木俣様はこのまんまじゃマズいって思ってな、早くから兵部少輔様を分家させて弟の直孝様を井伊家の当主にしたほうがいいって動いた。
木俣様は駿府老中の本多佐渡守様(本多正信)と一緒になって兵部少輔様分家を画策したんだがな、慶長12年に越前様がポックリだ。急にポックリだったから佐渡守様が何かやったんじゃねえかって噂も流れた。ま、越前様がポックリ逝ったんで分家の画策はいったんヤメにして「親結城」から「親徳川」に井伊家中を変えていこうってことになった。その中心になったのが木俣様だ。
ところがれなりん、慶長15年の7月11日に木俣様が死んじまった。木俣様には子が無かったからな、養子の守安様が木俣家を継いだ。でもよれなりん、兵部少輔様は守安様を家老にはしねえで藩政から遠ざけた。気持ちはわかるんだ。てめえを分家させようと動いてたヤツの養子を家老にって言われたって、そりゃ誰だってイヤだろうよ。
こいつが裏目に出た。木俣様と守安様父子は井伊家中で人望厚くて信用・信頼も大きかったからな。井伊家中が兵部少輔様の下でまとまらなくなっちまった。
そこへ、慶長18年のあの一件だ。
この年の4月25日に越後高田藩家老で幕府の金山奉行でもある大久保石見守様(大久保長安)が脳卒中で死んじまった。酒とオンナの毎日だったからな。卒中起こしてもしょうがねえんだけどよ。あの一件ってえのは不正蓄財のことよ。大久保のオッサン、屋敷の床下に不正蓄財の千両箱ぎっしり隠してやがってな。権現様はそのこと気付いていなすったが、大久保のオッサンのこれまでの功績から生前については罪を問わねえことにしてた。で、オッサン死んだ次の日に奉行所が大久保屋敷に乗り込んだ。ずいぶん手際の良い話だぜ。
で、出て来ちまった。
床下にあるびっしりの千両箱の中に一つ、綺麗な翡翠色の箱があってな。奉行所の連中が封を開けずに秀忠公に差し出した。秀忠公は箱の封を解いてびっくり仰天よ。れなりん、中身は謀反の連判状でな。そこにゃあ豊臣秀頼・結城秀康・松平忠輝・大久保忠隣って「びっぐねーむ」がズラっと並んでた。秀忠公は泡食って駿府の権現様に御報告よ。
れなりん、この慶長18年って年は「ぽいんと」になる年でな、1月25日に播磨宰相様(池田輝政)が亡くなられてな。これで豊臣の武力討伐を反対する最有力大名がこの世から消えた。で、今度の大久保屋敷の連判状だ。権現様が本気で豊臣を武力討伐することに決めたのはこの年だ。
翌、慶長19年。
権現様は佐渡守様を使って井伊家の連中に兵部少輔様を江戸で軟禁させた。これまで越前様と親しかったこと、越前様との仲を心配してた木俣様の養子を家老にしなかったこと、これらのことが権現様から見たら不安材料になったんだろうぜ。
江戸で軟禁になった兵部少輔様に代わって、弟の直孝様が大坂冬の陣に出陣した。こンとき守安様は家老職に就いた。
冬の陣が講和になると、権現様は夏の陣を前に兵部少輔様を佐和山から上野安中3万石に分家させた。家老になった守安様が安中分家を実現させたのよ。
守勝様・守安様二代で成し遂げた分家。
これで彦根藩井伊家は明治まで残ったし、木俣家は1万石の筆頭家老として明治まで残って男爵を与えられた。
ま、こんないきさつから兵部少輔様は彦根藩井伊家では二代目として数えねえ。
でもよれなりん、直孝様は分家する兄貴に孔雀の陣羽織を渡してるんだぜ。孔雀の陣羽織は権現様が伊賀越えのときの功績で佐和山侍従様にお与えになった陣羽織でな、名誉の陣羽織だ。こいつを兵部少輔様に渡した。兵部少輔様の安中藩は後年越後与板(いまの新潟県与板)に国替えになったんだがな、孔雀の陣羽織は与板に現存してる。直孝様としては35万石と名誉の「ばらんす」を取ったんじゃねえのかな。
かおりさん、これが井伊兵部少輔一件でございます。
こんな話、水戸様の御許し無くば打ち首でございます。
おいれなりん!
そんなおまえ、あおとうの上に七味ドバドバかけやがって!
そんな辛いの食えねえよ!
何!?
「井伊は赤備えだから」
馬鹿言ってんじゃねえ!!
ったく、しょうがねえなあ。
れなりん、またな。