もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

岡山城

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【2012年6月5日】

元和8年8月21日。

出羽山形藩主・最上義俊、家中不統一により改易。

このときのことを、同じく出羽国久保田藩佐竹家の家臣・梅津政景は日記に

「公方様(秀忠将軍)は最上義光・家親二代の奉公により今回の御家騒動をお許しになり、これまで通り国老に山形の仕置をお命じになったが、『それは出来ない』と返答した国老がいたために公方様が直接最上の仕置をすることになった」

と書いている。

最上家は50万石という大封であったため国老(家老)同士のいざこざが絶えず、それがとうとう御家騒動にまで発展した。

藩主・最上義俊は酒色に溺れる暗君だったため、最上家家中を統一出来るだけの能力を持ち合わせていなかった。

秀忠将軍は最上家の御家騒動について、「義光・家親の二代にわたる忠節に免じ、これまで通り国老の合議制で山形藩を仕切れば良い」という温情裁定を下したが、この温情に反対した最上の国老が2人いた。

山野辺義忠と鮭延秀綱である。

山野辺と鮭延は

「上様の御温情はありがたいのですが、藩主・義俊は酒色に溺れる暗君にて、今後もまた同様の御家騒動を起こすでしょう。せっかくの御温情なのですが、どうか山形50万石はお取り潰しいただきますようお願いいたしまする」

と幕府の使者に申し出た。

山野辺・鮭延の両人は「最上武士の意地」を見せたのだ。

この申し出を聴いた秀忠将軍は「ならば直接仕置するまでよ」と、山形50万石をお取り潰しにした。

山形藩お取り潰し後、山野辺義忠は備前岡山藩主・池田忠雄にお預けとなった。

山野辺は2人の息子と従者十数人を連れて岡山に入り、幽閉生活を始めた。

ここで山野辺義忠と岡山との接点が出て来る。

岡山に幽閉されること12年。

寛永10年9月、山野辺義忠は赦免されて水戸徳川家へ仕えることになった。

山野辺同様に「最上武士の意地」を見せた鮭延秀綱は江戸で浪人したあと、下総古河藩主・土井利勝に5,000石で召し抱えられた。

水戸藩主・徳川頼房は山野辺に1万石を与えて家老とした。

また、次男・義堅に娘・利津姫を嫁がせて徳川・山野辺両家の結びつきを強固にした。

罪人・山野辺義忠の中にきらりと光るものがあったのだろう。頼房は山野辺を家老としたのち、世子・鶴千代の教育係に任命した。この鶴千代こそ、のちの徳川光圀である。

寛文4年12月16日。

山野辺義忠死去。

享年77。