【2009年9月15日】
京極忠高。
出雲松江25万石の国持大名だ。
忠高の正室が秀忠将軍の娘・初姫だったことから、出雲・隠岐の2ヶ国を与えられた。
忠高と初姫は、上手くいかなかった。
忠高のツラいところは、初姫が秀忠将軍の娘であるために離縁出来なかったことだ。
忠高は側室との間に1男1女をもうけた。
1女の方は伊知子という名前で、この伊知子に関してはいろいろと史料が残っている。
が、1男の方が問題なのだ。
京極家の家系図では忠高の子供は伊知子しかいないことになっている。男の子がいたことにはなっていない。
何でだろう?
忠高は初姫と秀忠将軍に憚って男の子の方は認知しなかったのだ。このへん、いえやっサンが築山殿というヒステリーママのために土井利勝を認知しなかったのと似ている。
男の子は忠高の弟・高政の子として人生を歩むことになった。
「オレの子なのに、オレはこの子の父親になれない」
苦々しさと馬鹿馬鹿しさが日に日に大きくなった。
もともと上手くいっていないうえに、この件でますます忠高夫妻の仲は上手くいかなくなった。
やがて初姫は病に倒れた。
忠高はちっとも心配しない。
初姫はそのまま病死した。が、忠高はお構い無しだ。
忠高は初姫が死んだ日、相撲見物をした。正室の死を無視したのだ。
相撲見物の一件は秀忠将軍の耳に入った。
秀忠将軍は激怒した。
秀忠将軍は
「初姫の遺体は幕府で引き取る。葬儀は徳川家で執り行う。京極家の葬儀への出席は一切認めない」
と、忠高に通告した。
忠高がこの通告を突きつけられてどう思ったかは知らない。
ただ、初姫が死んだあとも京極家は取り潰されていない。
土井利勝と二人三脚でたくさんの大名を取り潰した秀忠将軍が京極家を潰さなかったのだ。
何でだろう?
忠高は他に男の子を残さずに死んだ。
京極家は高政の子として暮らしていた高和を跡継ぎとして認めてくれるように幕府に願い出た。
似たような例は、松江藩前藩主堀尾家でもあった。堀尾家の場合は一族から相続者を立てて松平信綱に相続を認めてくれるように願い出たが、土井利勝が信綱に「認めるな」と言ったため堀尾家は取り潰しとなった。
京極家では堀尾家の例が頭をよぎった。
が、意外にも幕府の下した判断は
「京極忠高の甥・高和に相続を認め、播磨龍野6万石を与える」
というものだった。
本当は実子なのだが「甥」となっているところに皮肉を感じる。
高和はのちに播磨龍野から讃岐丸亀に移封となり、明治まで続いた。
「将軍の娘は、嫁しても臣下の礼を取らず」
将軍の娘をもらう大名の大変さはこの当時からあった。