もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

高崎城

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【2012年12月27日☆】

寛永10年12月6日。

上野高崎城下の屋敷で一人の青年が頸部から大量の血を流して発見された。

発見者は日頃からこの青年の身の回りの世話をしている高崎藩主・安藤家の女性で、この女性からの通報を受けた高崎藩主・安藤重長はすぐに屋敷へと向かった。

死亡したのは前駿河府中藩主で従二位権大納言・徳川忠長28歳。死因は頸部を太刀で刺し貫いたことによる失血死だった。

血の海に突っ伏していた忠長の遺体は高崎城下の大進寺に運ばれ、そこで荼毘に伏された。

忠長自害の日。

この日は朝から小雪がちらつく、どんよりとした曇り空だった。

気温はほとんど上がらず、気が滅入ってしまうような天気だった。

徳川忠長の幽閉されている高崎城下の屋敷は竹矢来で四方を囲まれていて、その竹矢来の圧迫感がますます忠長の気持ちを滅入らせた。

この日の午後、忠長の人生を決する使者が江戸から到着する。

阿部対馬守重次。

幕府老中として家光将軍を支え、家光将軍の死後追い腹を切った。

重次は忠長の部屋に入ると、身の回りの世話をしている女性に「お人払いを」と申し出た。

女性はそのまま退室し、部屋は忠長と重次の二人きりになった。

重次は、なかなか話を切り出せずにいた。

話を切り出せないまま、重次は泣き出した。

忠長は重次が何を言いに来たのか気付いていた。

忠長は自ら話を切り出した。

対馬守、そちは、兄上(家光将軍)からの使者で来たのか?それとも、大炊頭(土井利勝)の使者として来たのか?」

重次は「わぁっ!」と突っ伏して泣き崩れた。

忠長は「泣いていてはわからぬ。どっちなのじゃ?」と優しく問いかけた。

重次は絞り出すように一言、「申し訳…ございませぬ……」と口にした。

忠長は「大炊頭の使者なのじゃな?」ともう一度聴くと、重次は「左様にございまする」と号泣した。

大老職・土井利勝は家光政権維持のためにどうしても忠長の首が必要だと考えていた。徳川忠長は駿河・甲斐の2ヶ国に遠江の一部を加えた55万石の大大名だった。

しかし、寛永8年、忠長は父・大御所秀忠にとんでもない要求を突き付けた。

「兄上が征夷大将軍ならば、私には100万石か大坂城を下さい」

大御所秀忠は「父親を、強請るのか」と怒りを露わにし、忠長を甲府で謹慎処分にした。

しかし、このとき大御所秀忠は改易はおろかいのちを奪おうとまでは思っていない。が、寛永10年1月24日、大御所秀忠は忠長の処分を正式に決めないまま病死してしまう。

大御所秀忠薨去ののち、忠長が駿府城下でしでかしたことが問題化した。

忠長の家臣に小浜七之助というのがいたが、この小浜が何の落ち度も無いのにいきなり首を斬り落とされたのだ。

小浜の家族は幕府の旗本で、このことについて幕府に抗議した。

小浜家からの抗議を受けた家光将軍と土井利勝駿府藩改易を決意。寛永9年10月20日、徳川忠長は55万石を召し上げられて上野高崎藩安藤家へお預けとなった。

忠長は高崎から大老職や老中職、さらには天海僧正にまで手紙を書いて赦免を求めた。

しかし、土井利勝

駿河どのをここで赦免したら、政権の障りになる」

と思った。

生母・お江の寵愛を良いことに、家光将軍に対してでさえ不遜な態度を取り続け、さらには父親を強請り、挙げ句の果てには何の落ち度も無い家臣の首を斬り落とした。

「こんな人間、生きていてもらっても迷惑千万」

利勝はそう思い、阿部重次を忠長自害の使者にした。

利勝は家光将軍に忠長処分への迷いがあることを知っていた。なので、大老職の権限で忠長のことを決着させることにした。

忠長は「対馬守、役目大儀であった」と返事した。

忠長は身の回りの世話をしている女性に「御使者がお帰りじゃ。門の外まで送ってやってくれ」と優しく言った。

女性が重次を送り出しに行っている間に忠長は髪を整え、箪笥から死装束を出した。しかし、ここではまだ着替えない。

女性が戻って来ると、忠長は

「熱燗を一本、つくって来てくれぬか」

と女性に熱燗をつくるよう命じた。そしてそれが、徳川忠長最期の言葉となった。

女性が退室すると、忠長は死装束に着替え、太刀で頸部を刺し貫いて自害した。

「酒が出来ました」

女性が襖を開けた瞬間、血の海で突っ伏している忠長が眼に飛び込んで来た。

阿部重次は大進寺で忠長の遺体を確認すると、江戸で利勝に報告した。

重次はこの一件を生涯の「こころの傷」とした。主君の弟へ賜死を申し付けなければならなかったのだ。

家光将軍の死後、重次は殉死した。

殉死することで、ようやく重次は「こころの傷」から解放されたのだ。