【2010年12月1日】
加藤清正の小姓に上月左膳という者がいた。
この上月は朝鮮出兵に従軍し、朝鮮で死亡した。
死因は、虎に噛まれたことによる。
上月は清正のお気に入りの小姓だった。
当時、朝鮮半島にはアムール虎が多数生息していて、上月はこのアムール虎の餌食になったのだ。
清正は、アムール虎に報復した。鉄砲隊を率いてアムール虎の群れを撃ち殺した。
これが、どういうわけか日本で違う形で伝わった。
「清正さまが朝鮮で槍を奮って虎退治をした」
勇ましい話が好きな庶民はこれをすっかり信じた。そしてこの話は日本中ですっかり定着した。
しかし、「虎退治」の話はフェードアウトどころか清正の帰国でますます盛り上がった。
「オレ、この目で直に清正さまを見たぞ」
「あの槍だ。あの槍で朝鮮の虎を成敗したんだ」
帰国した清正を見た庶民は勝手に盛り上がってしまい、もはや真相などどうでもよくなってしまったのだ。
清正=虎。
完全にこのイメージが定着してしまった。
清正は
「しょうがないから、そのイメージに沿ったキャラになるか」
と割り切った。
今は大きなビルやホテルや高層マンションが建ち並ぶ高級住宅街だが、清正が住んでいた当時はそんな高層建築物は建っていない。そのため、紀尾井町から東京湾が一望出来た。
清正は「ここは景色が良い」と上機嫌になった。
そして、
「黄金の虎を屋敷の門の前に建てよう」
と思いついた。
「黄金の虎」はすぐ江戸っ子の評判になった。江戸っ子たちは「さすが虎退治の清正公だ!すげえや!!」と拍手喝采した。
が、意外なところから清正に苦情が出た。
江戸湾で漁を営んで生活している品川の漁民から苦情が出たのだ。
漁民たちは
「虎に日光が当たると、その光が海面に反射して魚がまぶしくて逃げてしまう」
と言うのだ。
これには清正も苦笑いだった。
「それはすまなかった」
清正は漁民の訴えを聞いてすぐ「黄金の虎」を屋敷の中に引っ込めた。これがさらなる清正人気を呼んだ。
「清正公は漁民の訴えにも耳を傾ける」
この清正人気のために、いえやっサンは豊臣討伐を清正の死まで待つことになった。清正は豊臣恩顧の筆頭だったからだ。
清正の幼名は虎之助。
虎とはつくづく縁の切れない人生だった。