もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2010年12月3日】

加藤嘉明

豊臣秀吉の軍事将校で、「賤ヶ岳の七本槍」の1人である。

父親は岸 教明という男で、教明は三河国一向一揆に加担した。

いえやっサンは一揆軍と講和を結んだ際に「残党狩りはしない」と約束したのだが、講和が成立すると同時に約束を反故にして残党狩りを始めた。このため、三河にいられなくなった。

一家は流浪の日々を送ることになったが、嘉明1歳のときに父母が相次いで病没。嘉明は孤児になってしまう。

しかし、この孤児は幸運なことに近江長浜の博労(馬喰)に拾われた。父母の遺体の側で自分も1歳で骸になっていてもしょうがない状況だったのに、嘉明は博労に拾われた。

博労は嘉明に商売のイロハを厳しく叩き込んだ。

博労は嘉明に

「商売に必要なのは、骨になっても持ち場を離れないことだ」

と叩き込んだ。

これは「サボるな」「怠けるな」といった小さなスケールの話では無くて、「責任感」についての話をしたのだ。

15歳の時、縁あって羽柴藤吉郎に仕えることになった。

嘉明は戦場で「骨になっても持ち場を離れない」責任感を発揮して活躍した。

賤ヶ岳で活躍した嘉明は淡路国に4万石を与えられ、文禄の役のあとには伊予松前(正木)10万石を与えられた。

本来なら父母の遺体の側で骸になっていたはずの孤児が、幸運を得て10万石の大名にまでのし上がったのだ。

関ヶ原では東軍に付き、同じく伊予松前から松山に20万石で転封となった。松山城の築城はこのとき始まった。

嘉明は孤児だったこともあり、博労のもとでは苦労が続いた。

しかし、そんな彼に温かい心で接してくれる人も多かった。そのため、嘉明は人の気持ちのわかる思いやりのあるの人間に成長した。

秀吉の死後、加藤清正等が石田三成邸を襲撃したが、その襲撃メンバー7人の中に嘉明の名前がある。

嘉明は

「オレたちが朝鮮でどれだけ大変な目に遭ったかも知らないクセに、太閤殿下にあること無いこと告げ口しやがって。おまえの告げ口でどれだけの人たちが迷惑したことか」

文禄・慶長の役で三成の告げ口のために傷付けられた連中を思い、怒りを爆発させた。

この思いやりが人望や信頼を得るもとであった。

嘉明は大坂の陣のあと、陸奥会津若松42万石に大幅加増されて転封した。

孤児の身から陸奥会津若松42万石。

「責任感」と「思いやり」で得た42万石であった。