【2010年11月16日】
正保2年12月12日。
この日、長崎奉行所に一通の手紙が届いた。
手紙の差出人は明の武将・鄭成功である。
手紙には
「大明帝国を救うため、武器と援軍を送って下さい」
と書かれていた。
鄭成功は日本と無縁の人物ではない。父・鄭芝龍が平戸にいた頃、田川マツという日本人女性との間にデキた子が鄭成功だった。
鄭成功は「第二の母国」とも言える日本に「大明救援」を要請したのだ。
長崎奉行所からの通報を受けた幕府は、援軍を出すかどうかについて幕閣や御三家等に諮った。
幕府内では援軍派遣の声が大きかった。家光将軍は京都所司代・板倉重宗に出兵の準備を命じたくらいである。
板倉重宗は甥の重矩に
「大明攻め候わば、斬り取り勝手」と興奮気味に手紙を書いている。
「先陣は紀州軍が承り申す」
とさえ言った。
異常な雰囲気だったと言っていい。海外出兵という興奮が幕府内の空気を支配していた。
大勢が「大明救援」に傾いている中で冷静な年寄りが二人、いた。
一人は下総古河藩主・土井利勝。
二人とも幕府の大老職である。
家光将軍が京都所司代に派兵準備を命じているくらいである。主戦派の筆頭である徳川頼宣は当然「大明救援」で決定だろうと思っていた。
また、「大明救援」には幕府の取り潰し政策のために増加した大量の浪人対策になるとの見方もあった。板倉重宗の「大明攻め候わば、斬り取り勝手」と言うのも、浪人が中国大陸で「斬り取り勝手」で領地を得れば、浪人問題も解決するであろうという考えからだった。
井伊直孝は、動いた。
徳川頼宣に直接
「紀州様、大明救援のこと、幕府は請け合いかねる」
と告げた。
徳川頼宣は
「大明救援は浪人対策の一環でもある。『はいそうですか』とはいかぬ」
と言い返した。
井伊直孝は
「豊太閤のあと、朝鮮国と国交修復するのにどれほど骨が折れたことか。あれと同じ愚挙を繰り返すおつもりか」
と強く言い返し、
「浪人に人の血でメシを食うようなマネはさせませぬ」
ときっぱり言い切った。
幕閣で一番の「武闘派」・井伊直孝が口にする「非戦」。
直孝が口にするからこそ凄みのある「非戦」。