【2010年9月16日】
油屋肩衝という茶入がある。
もとは油屋常言という者が所有していたのでこの名前がついた。
常言の息子の常祐が豊臣秀吉に譲り、以後、油屋肩衝は名器としての道を歩む。
秀吉はこれを福島正則に与えた。加藤清正同様、幼い頃から秀吉に仕えた正則に秀吉なりの褒美を与えたのだ。
大坂の陣のあと、福島正則は改易された。完全に取り潰されずに信濃川中島4万5千石を与えられ、そこで晩年を過ごした。
正則が川中島で病死すると、付き添って看病していた長男の忠勝が正則を火葬した。
ところが幕府は
「検屍の前に勝手に火葬するとは不届至極。川中島藩は改易」
という処分を下した。
福島家の家臣は「どんな形でも、家名存続を」と願った。そこで油屋肩衝が登場する。福島忠勝の弟・正利が油屋肩衝を秀忠将軍に差し出したのだ。
秀忠将軍は大喜びで正利に3千石を与えて旗本として家名存続を許した。
名器の力は家名存続にとどまらなかった。
正利の死後、無嗣収公となるところを幕府は忠勝の孫・正勝に2千石を与えて福島家存続を許した。恐るべき名器の力である。
秀忠将軍は油屋肩衝を土井利勝に与えた。利勝にとって名器の下賜は大変な名誉だったろう。さきの福島正勝相続に利勝が一役買ったことも想像がつく。
その後、油屋肩衝は土井家の手を離れて所有者が転々とする。流浪を続けたこの名器は、江戸の伏見屋という店の所有となった。
相場1万両(5億円)ともいわれる油屋肩衝を治郷はポンと買い取った。「茶人大名」だとか「文化人大名」だとか言われる所以である。
治郷が茶器を購入する際には治郷なりのやり方があった。
まず、気に入った茶器を見つけると身分を隠した家臣を店に行かせて「探り」を入れた。治郷本人が行くと店側が「どうせ殿様には値段はわからんだろう」と法外な値段を吹っかけられる可能性があるが、身分を隠した家臣が行けば店側もありのままを話すだろうというのが治郷の考えだった。
「良い物を、適正な値段で」
これが治郷流の買い物だった。
油屋肩衝は明治まで松江藩松平家の所蔵だったが、のちに畠山即翁という人に買い取られた。
畠山即翁。
油屋肩衝は現在、東京都港区の畠山記念館に所蔵されている。