【2010年9月10日】
織田有楽斎長益。
織田信長の弟だ。
長益は、誰からも警戒されなかった。
兄・信長も長益を警戒することは無かった。
毒にも薬にもならない存在だった。
本能寺の変で兄・信長が殺害されたとき長益も京都にいたのだが、長益が京都から逃亡する際に明智光秀は
「ああ、あの人か。あの人は、いいんだ」
と言って見逃した。
ここまでノーマークというのは、本当に毒にも薬にもならないことの何よりの証明だ。
武士階級でここまでノーマークというのはある意味屈辱なのだが、長益はそんなこと気にしない。
気にするどころか、長益はさっさと秀吉に臣従した。僅かな捨て扶持をもらってそれで満足した。
「それでも男か?それでも信長公の弟か?」こう陰口を叩く者もいた。
しかし長益は気にしない。
長益は千 利休に弟子入りし「利休七哲」に数えられるまでになった。そしてこの「茶の湯」の才能があとで長益が大きな活躍の場を得るきっかけになる。
長益が「茶の湯」で築いた人脈。
人脈は今も昔も大きな力になるものだが、長益の築いた人脈は「茶の湯」で磨いた交際力だった。
この交際力を生かしたのが大坂冬の陣前後の豊臣・徳川両家の和平交渉だった。
もし長益がいなかったら、いえやっサンはもっと早く豊臣家を滅ぼしていただろう。それをさせなかったのは長益の交際力から出る交渉力だった。
日頃の交際の中から人と交渉する能力を身に付ける。長益は「茶の湯」から自分が「きらり、この人」でいられる場所を見出したのだ。
長益は信長・秀吉・家康の時代を「交際力・交渉力」を武器にタテ・ヨコ・ナナメに生きた。
誰からも警戒されず、誰からも憎まれず。
勇ましい戦国武将と比べたら決してカッコ良くは無いし、信長があれだけ偉大だったのに対して長益は信長の死後さっさと秀吉から捨て扶持をもらい、さらには秀吉の死後はいえやっサンから捨て扶持をもらった。
「カッコ悪い」と言う人もいるだろう。しかし、長益は豊臣・徳川の和平交渉というとても難しい仕事を自分の「交際力・交渉力」を使って取り組んだ。
交渉そのものは上手くいかなかったが、同じ時代の誰もが長益を「きらり、この人」と見たであろう。
たとえ天下人や国持大名になれなくても、自分の得意分野と持ち味を生かして生きる。
長益の人生は充実したものだったろう。
東京都千代田区有楽町。有楽町の「有楽」は有楽斎の「有楽」である。