【2008年4月17日】
豊臣秀吉の『奥州仕置』によって伊達政宗が会津黒川から岩出山に国替えになると、会津黒川には蒲生氏郷が94万石(公称100万石)で入封した。
会津黒川に入封した氏郷は「ここを松阪のようにしよう」と思った。
松阪とは伊勢松阪(現在の三重県松阪)のことで、氏郷は松阪12万石の城主だった。
松阪城主時代、氏郷は松阪を『商人の町』にした。
これは、織田信長の影響を受けたものだ。
氏郷は信長の娘婿だったところから、信長の貨幣経済・商業重視の考え方を色濃く受け継いだ。
これが『伊勢商人』の原型となった。
氏郷は会津黒川を「松阪の弟分(若い松阪)」というような意味合いで会津若松と改名した。
秀吉は天下を取ると、
「氏郷は御屋形様(信長)の娘婿で才能も人気もある。あんなヤツを大坂に近いところに置いといたらアブナイな」
と警戒し、氏郷を82万石も加増して松阪から会津黒川に飛ばした。
これが氏郷の会津黒川入封の理由だ。
「たとえ12万石のままでも、松阪にいれば飛躍出来たものを…」
そう言ってその日一晩涙した。
が、翌朝、もう氏郷はメソメソしてはいなかった。
城に家臣を集めた氏郷は
「この度、オレの石高は7倍近く増えた。いままで松阪で貧しい暮らしをさせて来たおまえたちに恩返しがしたい。そこで、ここにある紙に希望の石高を書いてくれ。あとでそれをオレが見るから」
と、紙切れを残して氏郷は退出した。
家臣たちは最初好き勝手を書いた。
氏郷に提出する前に重臣がチェックすると、「これでは殿の取り分が無いではないか」ということに気付いた。
重臣は「おまえたち、今一度考え直して紙に書け」と言い、全員に書き直させた。
書き直しをする中で、「おまえは多過ぎる」だとか「おまえ、ちょっと少ないんじゃないか」だとか家臣同士で議論になった。
氏郷はこうなることを見越して石高の分配を家臣任せにしたのだ。
これが、国家予算の制度の原型といわれる。